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安倍晋三の日本国家解体(その9-2)――学校解体の共産革命(その2)

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安倍晋三の日本国家解体(その9-2) ――学校解体の共産革命(その2)





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フリースクールの正体


 校内での性交を奨励



 道徳破壊、人間破壊、社会の破壊、良心を消失させる。
 共産主義(マルクス・レーニン主義のみにあらず。あらゆる種類の人間社会を破滅させる思想、アナーキズム他)社会を実現するため、人間を非人間に改造。
 













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中川八洋掲示板
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2015/06/19/192527



“学校解体の共産革命”フリースクールに熱狂する“共産党の操り人形”安倍晋三 ──安倍晋三の人気至上主義の代償は、日本の教育崩壊

2015.06.19

カテゴリ:フリースクールによる学校解体

筑波大学名誉教授 中 川 八 洋





 (続き) 









第二節 文部官僚が崇拝する“【学校解体→共産革命】教祖”イリイチ



 日本には「保守主義」が存在しない。「革新」という社共とは対決すると意味の、日本政治の特殊用語「保守」も、田中角栄が首相になった一九七二~三年の僅か一年間ほどでぶっ壊れて、ほとんど死に体となった。その後の自民党は、イデオロギー無しの利権集団となり“選挙屋・利権屋の集合体”以外の何ものでもない。

 自民党国会議員の実態である“選挙屋”は“選挙屋”であって、政治家ではない。かくして、日本の国会には、社会主義・共産主義の革命家=赤い政治家を除けば、自民党の国会議員のような“選挙屋”すなわち非・政治家しかいない。要するに、日本の国会は、赤い政治家の野党と非・政治家の選挙屋たちの与党によって構成されている。


 赤い政治家からなる野党と非政治家たちからなる与党が半ば対決し半ば野合する国会が船長の役割を担う、そんな日本国の政治が、政治不在となるか、迷走する政治にしかなりえないのは、当然であろう。“船長のいない巨大船舶”がただ大洋に浮んでいるだけの“生ける屍国家”こそ現在の日本だ、とも譬えられよう。日本国とは、羅針盤も海図も失って大洋を彷徨っている、腐敗と堕落がすすむ老朽巨大船舶である。ならば、日本にはもはや未来はない。沈没して海の藻屑となる亡国だけが待ち受けている。

 内閣もまた、このような惨状を呈する国会から選出される以上、頽廃と劣化の国会がもつ悪弊を凝集した塊にしかなりえない。この結果、日本国は、すでに赤い官僚が過半を占領した非・日本の官僚機構となった霞ヶ関官僚たちのやりたい放題の共産革命が暴走する無法状態になってしまった。


 オルテガの言葉を用いれば、「赤い垂直侵略者」に、日本国は簒奪されてしまったのである。「垂直侵略」とは、ロシアや中共など国境を水平に侵犯する外国からの侵略ではなく、日本国内で生れた日本国籍をもつ“非・日本国民”が(国境を水平に侵犯する必要がなく、国土に垂直に現れて)日本国を侵略し占領する情況をいう。この赤い官僚たちは、共産党が支配する“共産コミューン”となった日本の大学の文系学部で大量生産される。しかも、上級職の採用は共産党系の東大生/京大生/一橋大生が優先されているから、霞ヶ関の「赤い垂直侵略者」は、霞ヶ関を所狭しと大繁殖することになった。

 三権分立の制度によって、この赤い行政府を牽制しうる国会は、前述の通りのテイタラク惨状。このため、日本の行政府では共産革命のための極左イデオロギーの官僚は、滅菌もされず消毒薬を撒布されることもなく、平然と共産革命に邁進している。


 今や、霞ヶ関の官僚で、共産党系や中核派あるいは革マル派・旧社青同以外の、非・左翼官僚などごく稀できわめて少数。むろん、「保守主義」官僚はゼロ。「保守」系官僚が警察庁と財務省に若干名が散見できる程度。

 若干名であれ(共産主義思想とのイデオロギー対決が国家を守ることだとの政治信条をもつ)「保守主義」官僚が主要官庁に必ず存在し、(社共は日本にとって有害政党だと、平凡だが正常な判断をしていた)「保守」系官僚が過半数だった1960年代までの霞ヶ関の風景は、遠い昔に読んだ絵本のような話となった。思い出すことのできる日本人さえ消え去ろうとしている。どうやら私(中川)が、1960年代までの日本の霞ヶ関官僚機構を記憶している最後の日本人のようだ。真正のエリート日本国民は、絶滅危惧の危険ラインをとっくに超えている。絶滅したといえるからだ。
















“日本のフリー・スクールのモデル”英国のサマーヒル校は、校内での性交を奨励


 話が脱線してしまった。さて、日本のフリー・スクールだが、その基本モデルは、英国の過激共産主義者ニイルがレーニンのロシア革命に共鳴して開校した「サマーヒル校」(1924年)とベトナム反戦運動から生れた米国共産主義者が運営する「クロンララ校」(1963年)である。この事実は、日本のフリースクール革命運動の旗手「東京シューレ」の理事長で共産党員の奥地圭子の出版物──例えば、奥地圭子の2000年刊の『フリースクールとは何か』や、同じく2005年刊の『不登校という生き方』──などを読めば直ぐわかること。

 つまり、「レーニン→ニイルの【サマーヒル校】→日本のフリースクール」である。また、「ソ連KGB第一総局→米国共産主義者のベトナム反戦運動→【クロンララ校】→日本のフリースクール」である。例えば、前述の「東京シューレ」は、「クロンララ校」との交流が緊密である(注2)。


 ところで、日本ではフリースクールについては、ほんの一部の識者が「共産党が不登校児を集めて、共産革命のための学校解体運動に悪用している」事実に気付いているぐらいで、それ以上のことは日本では全く知られていない。安倍晋三や下村博文ら自民党国会議員や一般日本人に至っては無知を極めて、フリースクールが共産革命のための怖ろしい学校解体運動である事実すら知らない。

 そこでまず、“悪魔の共産主義者”黒柳徹子を育てた「トモエ学園」が参考したらしい「サマーヒル校」を開校したニイル校長の怖ろしい凶悪な教育思想を紹介しょう。反教育/反人間の“悪魔”的な教室であるフリースクールの実態が、直ちに理解できる。


 ニイルは、多くの著作を出版した。このため、サマーヒル校が“人間の動物化改造”という反教育の実践機関であることは、英国だけでなく世界の常識である。だから、フリースクールあるいはオールタナティブスクールは、正常な全世界の教育界が、弾圧はしないが、監視対象としている。

 この2015年、日本の文科省がフリースクールを監視せず、あろうことか逆立ちして、支援しようとするのは、文科省自体が共産主義革命の国家権力と化しているからである。今や文科省こそ学校解体を先導する「レーニンごっこ」の急先鋒である。


 なお、中核派マルクス主義者で北朝鮮人・寺脇研にリードさせて文部省(当時)はかつて、日本の教育破壊と日本人の知的劣化を目指して「ゆとり教育」を導入した。この「ゆとり教育」が、フリースクール運動とは親類筋の日本共産革命の一つだったように、文科省の教育行政は共産党の完全支配下にある。共産党や中核派その他、共産主義者でない“中立的な文科官僚”など果して何人いるのだろう。

 さて、ニイルの「教育」は、次のように“教育”ではない。まず、生徒には、授業欠席の「自由」を享受させる。次に、教師には、どんな授業をしてもよく一般常識の授業である必要はないとする。







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 「授業は出席自由である。出てもよいし、出なくてもよい。出たくなければ何年でも出なくてよい」

「私自身は、それぞれのクラスでどのようなタイプの授業が行われているのか知らない。一度も授業を見て廻ったことがない」
 


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さらに、言葉遣いはむろんマナーとか礼節・礼儀とかはいっさい排斥する。動物を理想の人間と設定している以上、人間が人間らしくなる躾を悪と考えるからだ。





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「汚い言葉については、学校内ではどんなに悪態を吐いても構わない」

「サマーヒルの食堂は、食事時には動物と同じくらいうるさい」(以上、注3)。
 


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 フリースクールの発祥サマーヒル校の驚愕は、これでほんの序の口。躾の禁止は、マルクスの『共産党宣言』に従った“道徳教育の禁止/絶滅”が最終目的だからである。つまり、フリースクールの絶対理念である“道徳の完全破壊”に向かって、「礼節は道徳の玄関口」である以上、礼節やマナーはまず破壊し尽くされねばならないのである。片や道徳の教科化を進め、片や道徳絶滅のためのフリースクールを推進する下村博文とは、分裂症には見えないから、“単なる度外れのバカ”ということになる。




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「道徳なるものが子供を悪くする。子供ための道徳教育というものは全く存在しうる余地はない」(注4)。

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 道徳破壊教育あるいは道徳性剥奪教育という“逆教育”の信条において、サマーヒル校では、生徒同士の校内での性交を是認というより奨励した(注5)。動物が発情すればところ構わず交尾する光景こそ人間の理想と考える(『人間不平等起源論』で展開した)ルソーの人間動物化改造の狂気は、ニイル校長にとり最高の宗教的真理であった。

 かつて安倍晋三と山谷えりこ(現在の国家公安委員長)は、健全にも性交教育に反対して、ある共産党員の小学校教員の性交教育教材を没収した立派な行動をしたことがある。この同じ安倍晋三が、今般は真逆に逆立ちしたのか、過激な性交教育を「教育理念」とするフリースクールを推進している。

 安倍晋三とは、分裂症かもしれないが、自分の二律背反の分裂思考を認識できない、下村に負けないレベルでの“度し難いスーパー馬鹿”ということか。なお、上記の性交教材没収事件は裁判となり、安倍晋三と山谷えりこは敗北した。裁判に負けるとは、何というテイタラクの失態か。


 さて話を戻す。サマーヒル校は、“理想の共産社会ごっこ”を子供たちに教育することを、その建学の最高理念とした。具体的なその方法は、「自治」という名で、「五名の政治局員」と(一般ルールなき)恣意的な「人民裁判」を柱とする、レーニンのソ連共産党を生徒達に模倣させるやり方である。

 私有財産制の廃止を金科玉条とするサマーヒル校では必然的に窃盗の横行が日常となっていたが、これは“全生徒数八十名の夜盗盗賊団が相互に盗みに明け暮れる史上最低の学校”が実態だったことの証しであった。ニイル校長は、「共産主義的人間=野生の動物化した人間」への改造がフリースクールの根本理念だとの狂気において、この全生徒が泥棒へと「成長」するのを、フリースクールの素晴らしい成果だと胸を張る。






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「資本主義という忌まわしいし私有制社会は急速に滅びようとしている。すべての学校で(誰が生徒で先生かがわからないような)生徒が先生に代わる「自治」が実行されるなら、新しい(ポスト資本主義の)世代の子供達は、それ(=共産主義社会の精神や価値観)を身につけて人生に乗り出す」(注6)。

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下村博文よ、ニイルやイリイチ『脱学校の社会』を読み、安倍晋三を吊し上げ“フリースクール法案つぶし”に驀進せよ。これこそが真正の愛国心の顕現である。



下村博文は、大秀才だった伊藤博文と名前は一緒だが、頭の悪さは“バカの見本”のようなスーパー劣等生。明治時代であれば、小学校の卒業も不可能なレベルが、下村博文のおつむである。

 だから、下村は、①フリースクール関係者に、教条的な共産主義者以外が一名もいない実情を見抜けない。これほど露わな文科大臣失格者は、見た事がない。次に下村は、②「フリースクール」などと聞きなれない言葉を文教の国策にするとなれば、正常な社会人・政治家なら、「フリースクールの創始者ニイルの著作数冊を目を通すから、すぐ買ってこい」と、文科官僚に必ず指示したはず。だが、堕落と腐敗に生きる最低政治家の下村博文は、こんな当たり前の事すらしない。


 下村博文よ、今からでも遅くはない。本稿が言及した三冊でいいから、ニイルの著に目を通せ。これが文科大臣の当然の職務で、最小限の責任である。もし下村が、文科大臣の職責を履き違えて、この職務を放棄するなら、さっさと辞任するのが政治家の出処進退というものである。

 さて、ベトナム反戦運動家でソ連工作員で狂信的な共産革命家だった、マルクス・レーニン主義者イヴァン・イリイチは、(学校を共産主義人間への改造の場に活用する)ニイルのようなレーニン崇拝の原初的な共産革命ではなく、自由社会における学校そのものを解体・消滅させることを通じて共産革命を実現するドグマを考案した。「脱学校化 deschooled」のドグマである。そして1980年代、イリイチの“学校解体による共産革命”論は、文部省の過半をどっぷりと洗脳してこれら赤い文部官僚の“座右のバイブル”になった。それが、邦訳された『脱学校の社会』(邦訳1977年、原著1970年)である。


 北朝鮮人連合「小野事務次官―寺脇研」の「ゆとり教育」(備考)は、イリイチの学校解体ドグマを基軸に、ニイルのフリースクールをブレンドしたもの。だが、赤い文部官僚が「ゆとり教育」というトンデモナイ“反教育”を推進した1996年、猛反対すべき自民党は、小渕恵三らが中心となって、あろうことか、全面的に大賛成した。安倍晋三も、この時、「ゆとり教育」──“イリイチ型の学校解体による共産革命”プラス“ニイル型の共産主義人間への改造教育”──を消極的であれ支持したのである。安倍が国会議員になったのは1993年であった。

 安倍は、1996年の自分の愚行と無為を、フリースクール法案を国会に上程する前に、じっくりと思い出して自省すべきである。そして、総理としての職務ならびに日本国民としての責任を果し、この法案を粗大ゴミとしてぶっ壊して捨てることだ。


 なお、安倍晋三が後年、「ゆとり教育」が日本経済つぶしと日本人の知的劣化を図るものだと反省したのは立派である。2006年の第一次内閣で、安倍は中山成彬文科大臣に狂気の「ゆとり教育」を全否定した正常な「脱ゆとり教育」を指示し、その結果、2008年に学習指導要領が正常化された。

 だが、安倍は、今般ふたたび、“共産党の犬”になった1996年を再現している。安倍晋三よ、反省するのなら今しかない。フリースクール法案を国会上程前に“つぶし”てしまう、真正の「愛国心」を一度ぐらい発揮したらどうだ。そして、遡って、「ゆとり教育」にからんだ赤い文科官僚を、そのほとんどは定年退職しているが、処分するか、少なくとも名前だけでも公表して糾弾する“正義”を体現すべきである。


(備考)北朝鮮人の寺脇研ら赤い文部官僚と“マルキストの牙城”日教組が共同で推進した「ゆとり教育」は、1996年7月19日の第15期中央教育審議会の第一次答申で実行が決定した。安部は1993年から衆議院議員だから、この第一時答申を阻止する行動をおこす事はできたが、何もしなかった。 

      

 話を、マルクスの人間解放論の詭弁を信仰するイリイチに戻す。その著『脱学校の(理想)社会』は、次のように言う。文明の偉大な産物である“学校”に対して、あらん限りの嘘と悪罵を投げつけ、自由社会の一般人が恐怖に慄き子供を学校に行かせないように仕向け、制度化して機能している文明社会の叡智である“学校”を丸ごと破壊しようとの企みである。






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「学校は(マルクスの言う)疎外を人生への準備として必要なものとし、教育から現実性を奪い、仕事からは創造性を奪う」

「すべての人に学校教育を平等に受けさせることが人々を知的に無気力にし、社会の分裂化をもたらし、人々の政治制度への信頼艦をかえって失わせている」(注7)。


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 イリイチは、自由社会における共産革命の方法として、①学校解体と同時に、両輪的に②家族解体を提唱し、日本の共産主義者にとっては偉大な宣教師として崇められている。前者が文部官僚を虜にした『脱学校の社会』『脱学校化の可能性』など、後者が『シャドウ・ワーク』『ジェンダー』などである。『シャドウ・ワーク』は、内閣府の男女共同参画局や法務省民事局の官僚が“赤いバイブル”として崇拝している。

 つまり、イリイチは、フリースクール(学校解体)共産革命においても、家族解体・フェミニズム共産革命においても、霞ヶ関官僚を冒すコロナウィルス的な致死性の伝染病となって、日本国を死亡に至らしめるべく猛威を振っている。

 だが、無知と無教養さで小学生と競い合う自民党は、今日の霞ヶ関官僚の実態を全く知らない。自民党が描く霞ヶ関のイメージは、今から五十年前、一九六〇年代の霞ヶ関である。五十年前は五十年前に過ぎ去った。だがこれを認識できない自民党とは、“時代感覚を失った浦島太郎以下の白痴老人”ばかりが国会議員の政党だといえる。どうやら自民党とは、利権屋や選挙屋はいても、政治家が一人もいない白痴ばかりがいっぱいの政党に成り下がった、と嘆息する他ない。









 (続く) 







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