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あまりにも無知・無能・無責任であった昭和の日本陸海軍の指導者たち(その3)ー大東亜戦争の現実

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あまりにも無知・無能・無責任であった昭和の日本陸海軍の指導者たち(その3)ー大東亜戦争の現実

 

ー戦没者の60%強140万人餓死

 

 

 

 

 

 

 

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https://ameblo.jp/kororin5556/entry-12268226608.html

あまりにも無知・無能・無責任であった昭和の日本陸海軍の指導者たち(その3)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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Minade Mamoru Nowar
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html







太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった
                              


2013年9月 

Minade Mamoru Nowar


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

 

 

 

 

 

 

 

(続き)

 

 

 

 

 

 



沖縄(NASA衛星画像)
沖縄戦における軍人・軍属及び民間人の死亡者は20万人以上といわれる。


那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市:Photo by US Army

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第233頁~第235頁

 

 


むすび

日本軍戦没者の過半数が餓死だったという事実に、
私はあらためて驚きを感ぜざるを得ない。

しかもそれはある戦場の特別な事例なのではなく、
全戦場にわたって起こっていたのである。

補給の不足または途絶による戦争栄養失調症が常態化し、
それによる体力の低下から抵抗力を失って、マラリア、赤痢、脚気などによる病死、
つまり広い意味での飢えによる死、餓死を大量発生させたのである。


それも珊瑚礁の孤島や、
人の住まない熱帯性の密林などでなく、
人口豊富なフィリピンやビルマや、
さらに、中国本土においてでさえも発生して、死因の最大を占めているのである。

これは自然の条件によってもたらされた災害や、
偶然の事情が重なって起こった不可抗力の事件ではない。

日本軍に固有の性質や条件が作り出した
人為的な災害なのである。


もともと無理で無茶苦茶な作戦を計画して実行したり、
はじめから補給を無視して栄養失調が起こるのに任せたり、
これらは、故意に作り出された人的原因による結果だった
といわざるを得ないのである。

本書はそのことに焦点を置いて、
餓死発生の原因を追及してきたつもりである。

その結論は、おおよそ次の通りである。


餓死者の大量発生が特別な場合なのでなく、
日本軍の戦場ではどこでも起こっていたのはなぜか。

それは日露戦争以後の日本軍が、
積極果敢な攻勢至上主義をとり、
このための先制主導の戦略戦術が至上とされ、
作戦担当者は、この積極主義者によって占められた。

しかも、彼らは独善と専断を育てるエリート教育を受けていた。
彼らは作戦目的が至上で、兵站や補給、給養や衛生は、
すべて作戦に奉仕すべきだとしていたのである。


それを主要ないくつかの作戦で明らかにしてきた。

それによると、
まず第一に作戦目的があり、
目的達成のために計画が立てられるが、
そのさい輸送補給、給養や衛生といった
軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために
軽視または無視されたのである。


はじめから、補給をまったく無視して計画された
ポートモレスビー攻略戦やインパール作戦はもちろんのこと、
有史いらいの最大の作戦という中国の大陸打通作戦でも、
「糧を敵に借る」のがそもそもの方針で、
大軍にたいする補給の計画が立てられていなかった。

補給の目途がまったくない太平洋の孤島に
多数の陸軍を配備して、
みすみす餓死の運命に晒したことも同じ発想である。


つまり日本の作戦には補給の重要性についての
認識がまったくなかったのである。

このことは日本軍の特徴によってもたらされたものであった。
兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠けていた
のである。

それは、そもそも、
軍隊が兵士の生命と人権を軽視していたからであった。


当然問題とされるべき大量餓死の発生が、
特別の問題ともならずに
何回でもくりかえされたことにそれが現れている。

他国の軍隊に比べて、
日本軍では戦闘の主役として、
陸軍では歩兵、
海軍では戦艦が尊重され、
それに反して兵站や輸送、補給や衛生に関する部門は
軽視され差別されていた。
そのことも餓死と無縁ではないといえる。


こうした日本軍の特質をもっともよく示しているのが、
捕虜の否定と降伏の禁止である。

国際法を無視し、日本軍人は死ぬまで戦うべきで
捕虜は恥辱であるとする考えが主流となった。

日中戦争やノモンハン事件で捕虜の禁止は定着し、
捕虜帰還者は軍法会議で重刑を受けることになった。


この捕虜を認めず降伏を許さない日本軍の建て前が、
どんな状況の下でも通用したことが、
大量餓死や玉砕の悲劇を生み出したのである。

この戦争の日本軍の場合、孤立しあるいはとり残されて、
全体の戦況に何の寄与することもなくなり、
ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、
餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が多かった。

もし降伏が認められていれば、
実に多くの生命が救われたのである。

そもそも、無茶苦茶な戦争を始めたこと自体が、

非合理な精神主義、独善的な攻勢主義にかたまった
陸海エリート軍人たちの仕業であった。


そして、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指導し、
大量の餓死者を発生させたことも彼らの責任である。


無限の可能性を秘めた有為の青年たちを、
野垂れ死にとしかいいようのない
無惨な飢え死に追いやった責任は明らかである。



藤田嗣治・サイパン島


         


藤田嗣治・アッツ島玉砕


愛国洗脳教育が旧大日本帝国を滅ぼした!

アッツ島の玉砕(降伏者ゼロ、全員戦死)

 アッツ島は、アリューシャン列島の西端に位置し、北海道の知床岬から約2,200キロである。
北海道-沖縄間の距離に相当する。島の広さは、東西約56キロ、南北約24キロである。
海岸の95%は岩壁で、平地はツンドラの湿地帯である。気候は年間を通して霧が深い。
人はほとんど住んでいない。この島は米国の領土。

 日本がアッツ島とその隣りにあるキスカ島に部隊を駐留させることにしたのは、1942年
4月18日に、米軍のドウリットル航空隊によって東京爆撃が行われたためである。
両島から、日本本土爆撃機が出撃し、日本本土空爆が頻発すれば、国民の士気に影響する
と懸念されたためである。


 旧大日本帝国陸海軍は、1942年6月-7月、アッツ、キスカの両島を占領した。当初は、
航空基地の建設を考えたが、アッツ島は各種の自然条件が悪く、一旦、あきらめた。
しかし、その後、米軍の軍事基地がキスカ島の西方にあるようだとの情報が入ったので、
再びアッツ島で航空基地建設を行うことになった。

 1942年10月、この二つ島を守るために、北海守備部隊が新しく編成された。
部隊長は山崎保代大佐であった。この北海守備部隊の中のアッツ島守備部隊は、独立歩兵
303大隊、北千島要塞歩兵隊などのほか、高射砲、工兵、無線などの隊等、総勢2,500人で
構成された。


 アッツ島守備部隊は、資材の輪送が思うように行かない中で、航空基地の建設にあたった。
米軍の上陸・攻撃は予想しておらず、防御陣地の構築は行われなかった。

 米軍は、アリューシャン列島のひとつアムチトカ島に軍事基地を建設した。1943年に入って
からは、アッツ、キスカ両島へ資材・食糧を運ぶ日本の輸送船を狙い撃ちするようになった。
日本軍の制空権、制海権は、次第に失われていった。

 アッツ島への米軍の上陸攻撃は、1943年5月12日から始まった。アッツ島守備部隊の
山崎部隊長から、「5月12日未明、米空軍の猛烈なる爆撃が開始された。次いで、約1個師団の
地上部隊が上陸した。アッツ島守備部隊は既設陣地に拠り、この敵を反撃中」との電報が入る。


 米軍はアッツ島を奪取してアッツ島守備部隊が建設中の航空基地を奪い、自らの基地に
しようと考えたのである。北方の孤島とはいえ、アッツ島は米国の領土である以上、日本軍を
居座らせておくわけにはいかないとの面子(メンツ)もあって、なんとしても、この島を奪還する
との強い意思があった。




 米軍上陸から19日目の5月29日、山崎部隊長は、北方軍の樋ロ季一郎司令官に宛てて、
「思い残す事はない。現時点で使用し得る兵力は150名。一団となって、全員残らず討ち死する
決意である。私共は永遠の生命に安住する。祖国の栄光を祈る。天皇陛下万歳」との最後の
通信を送った。アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を伝える電報であった。

 アッツ島に上陸した米軍は、船団29隻、完全装備の兵士数約15,000人という戦力であった。
兵士数が1,500人のアッツ島守備部隊が対抗できるわけがなかった。それが19日間も持ち堪えた
のは、夜戦に持ち込んだことと、最後の一兵まで戦えとの大本営の命令があったからである。


 米軍の『公刊アメリカ軍戦史』に米軍の中隊長の証言がある。
証言の中に描かれている日本軍兵士たちの最後の姿はいたましい。

「霧の中から300~400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸を持っている。どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をまとい、
青ざめた凄まじい形相をしている。銃のない者は短剣を握っている。最後の突撃というのに、皆、
どこか負傷しているのだろう、足を引きずり、膝をするように、ゆっくりと近ずいて来る。

 われわれ米国兵は身の毛がよだった。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しかし、しばらくすると、むっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり、一尺、一寸と、這うように
米軍に迫ってきた。」


 玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の最後は、このような鬼気迫るいたましい姿だった。


 北方軍の樋口司令官は、山崎部隊長に、米軍が上陸してきたら、すぐに、増援部隊を送ると
約束していた。実際、米軍が上陸したとき、樋口司令官は、逆上陸を企図して、旭川の第7師団の
一部で、増援部隊を編成し、大本営に、この部隊をただちにアッツ島へ派遣したいと申し出た。

 しかし、大本営の秦彦三郎参謀次長は札幌を訪れ、樋口司令官に対して、「残存の海軍艦艇の
現状からみて、増援部隊をアッツ島派遣することは無理。到底できない」と説明した。

 樋口司令官は、山崎部隊長に、増援部隊派遣は実行不可能と伝えて、
「一死、困難に殉ぜられたし」と打電した。

降伏を認めない以上、これは、【死ね】という宣告であった。

卑怯・非情で無責任極まる大本営作戦参謀たち(戦後、だれも切腹していない!)

 アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)経緯から次の点が指摘できる。

大本営作戦参謀たちは、明確な戦略がないのに、安易に、アッツ島に兵士たちを送った。
しかも、目的は航空基地建設のため工兵隊が主体であった。(ガダルカナル島の場合もそうであった。)


大本営作戦参謀たちは、米軍の攻撃があった場合は増援部隊を送るとしながら、実際には
制空権も制海権も失い、増援部隊を送ることができなかった。


大本営作戦参謀たちは、増援部隊を送ることができないが、米軍に降伏して捕虜になる
ことは絶対に認めないから、最後の一兵まで戦い、全員戦死せよと、司令官、部隊長、
各隊長に厳命した。これが玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の実態である。


 なぜ玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)かといえぱ、まさに、「戦陣訓」にある、
捕虜になることは絶対に認めないという強い国家意思を、
兵士たちのみならず、日本国民全員へ徹底するためであった。

万一、仮に、捕虜になって、その後、生きて日本へ帰ってきても、
日本の社会は、捕虜になった者の復帰は絶対に認めない。だから、戦闘で負けたら、
何が何でも、【死ね】というのが戦時中の強い国家意思であつた。
そのくせ、東条英機、嶋田繁太郎などの最高指導者たちと、大本営の作戦参謀たちは、
杉山元、阿南 惟幾、大西瀧治郎など数人以外は、だれも責任をとっての切腹はしなかった。
戦後、平和な日本で、年額800万円以上の超高額の軍人恩給を終生貰い続けた。


 アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、戦時美談として、国民の士気を鼓舞する話に
すりかえられた。『戦争哲学』の著者であり、戦陣訓制定の陰の功労者であった中柴末純
(総力戦学会会長)は、アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を評して、「生きた戦陣訓が、
まざまざとここにある。この戦陣訓を胸に生かして、アッツ島二千幾百の英魂を死なせては
ならぬ」との談話を発表している。アッツ島守備部隊は、確かに、「戦陣訓の具現者」であった。

 アッツ島守備部隊の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、大本営の作戦参謀たちの無責任に
端を発している。大本営作戦参謀たちは、自分たちの思いこみだけで兵士たちを派遣した。

 そのことに関して、玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)後も、寸分の検討・反省がなかった。
すべての責任は戦場で戦う部隊に押しつけるというのが大本営作戦参謀たちの無責任極まる
図式であった。


 大本営作戦参謀たちは、自分たちの無責任を糊塗するために、「大本営発表」でアッツ島
守備部隊を英雄視する内容を国民に伝えた。

1943年5月30日17時に発表された内容:
 「アッツ島守備部隊は、5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し
血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を
発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後、通信全く杜絶し、全員、
玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、攻撃に先だち、悉く自決せり。」


洗脳教育は、
洗脳する者と洗脳される者の双方の

判断力、思考力、道義心を大きく劣化させ、
国を滅ぼす


アッツ島玉砕後、旧大日本帝国・大本営の作戦参謀たちの玉砕戦術は、
戦況の悪化につれて、増幅され、際限なく続いていった。

アッツ島の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)に続いて、タラワ、サイパン、
テニアン、ダアム、硫黄島、そして沖縄など、どこでも玉砕戦術がとられた。

戦時中、あたかも、これが日本的な戦いであると称揚された。


旧大日本帝国政府と大本営の、日本国民誑かし政策であった
【玉砕美化称揚】は、現在にいたるまで、厳密に検証・分析されていない。
民間人を巻き込んだ旧大日本帝国陸海軍の無理心中作戦である
玉砕戦術は、明確に、旧大日本帝国・大本営作戦参謀たちの戦争犯罪である。

筆者は、玉砕戦術が続いた状況、すなわち、客観的には、日本が太平洋戦争で
勝利する可能性が100%なくなった状況下においても、
旧大日本帝国陸海軍が米国に降伏することができなかつたのは、彼らが、
あまりにも
徹底的な愛国洗脳教育を日本国民に対して行った
必然的結果であると考えている。


昭和天皇の「降伏する」という断固たる決意がなければ、
1945年、日本国も日本民族も、超完全に滅亡していたと思う。


1931年-1645年の日本は、軍隊と同じ様な閉鎖集団であった。

軍隊という閉鎖集団では、心理的にも、肉体的にも、上官に対する屈服や
隷属の度合いが激しい。自立や自律の思想や哲学は、リンチという暴力で
徹底的に排除される。閉鎖集団への心理的、肉体的隷属を受け入れなければ、
集団から肉体的に抹殺されるのである。

玉砕した兵士たちが残した手紙や特攻隊員たちの手記は、両親や、妻子や、
兄弟姉妹たちへの思慕だけでなく、徴兵される前に身につけた自らの価値観を
拠り所として生きて行きたかったとを訴えている。


閉鎖集団とは、非力な個人にとっては、冷酷・非情な存在であることを強く認識
することが、アッツ島玉砕から、我々が学び取らねばならない教訓である。


旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たちは、昭和天皇から、統治権・統帥権を
簒奪して、日本国を乗っ取り、日本国民を戦争へと駆り立てた。


しかし、彼らに、一億総特攻とか、国民総玉砕などで、日本国を徹底的に
破滅させる権利、日本民族を徹底的に破滅させる権利がある筈がない。

2012年秋、愛国主義者と自称して、また、日本国民を誑かそうとする
右翼・軍国主義の政治屋が増えている。


くわばら、くわばら!

日本国民の洗脳に狂奔した旧大日本帝国陸軍

昭和天皇を傀儡化し、昭和天皇の意思をことごとく無視しておきながら、
不忠きわまる旧大日本帝国陸軍は、天皇崇拝、「天皇陛下のために死ね」教育、
神州不滅論、皇軍不敗スローガン、暴支膺懲(ぼうしようちょう)主張
(暴虐な支那=中国を懲らしめる)「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳等、
日本国民に対するさまざまな洗脳教育に狂奔した。


「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳の先頭に立っていた東条英機など、
旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たち18人は、

昭和天皇の意思をことごとく無視して、
日中戦争を拡大し、
日独伊三国同盟を締結し、
あまりにも無謀な対米開戦に踏み切り、
筆舌に尽くしがたい
昭和戦争の惨禍を引き起こし、
挙げ句の果て、敗戦した。


しかるに、切腹して無謀な意思決定の責任をとることもなく、
おめおめと米軍に捕らわれて、
東京裁判に引き出され、
「生きて虜囚の辱め受け」言行不一致、すなわち、
日本の最高指導者として国民に教え込んだことと、
実際に自分たちがやったこととは、
まったく異なることを実証して、恥を全世界に晒した。




【戦陣訓】なるものがあった。
旧大日本帝国陸海軍は、徴兵した召集兵士たちに対して、
「捕虜になることは絶対に認めない」
万一、捕虜になって、生きて日本に帰ってきても、
日本の社会や家族は、捕虜になったものを絶対に受け入れない。
だから、「降伏して捕虜になるより、いさぎよく死ね」と徹底的に洗脳した。


この洗脳教育が徹底していたカウラ捕虜収容所にいた日本人捕虜たちは、
「日本が勝利して、戦争が終わり、万一、幸運にも、日本に帰国できたとしても、
家族に迷惑をかけ、社会からは迫害されるだろう。
それよりも、いさぎよく死のう」という絶望感から
「死ぬこと」を目的に集団脱走したのである。実に悲惨な事件であった。


現在、中国と韓国が行っている
愛国反日洗脳教育も両国を滅ぼす!!


関連サイト:本土決戦 1億総玉砕-国民を道連れに無理心中!


 

 

 

 

 


参考You Tube:ゆきゆきて神軍

 

 

 

(完)

 

 

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