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ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その4)

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ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その4)





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https://ameblo.jp/kororin5556/entry-12028827200.html

ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その4)

 

 












12月11日 シベリア強制抑留・日本民族奴隷の悲劇 ⑦
https://www.youtube.com/watch?v=kDD8JjCHdU4































*****************************






(1)日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害(シベリア抑留)
2013年2月 Minade Mamoru Nowar

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/CombineDorei1.html









8.日ソ戦争を記述しない歴史書



 (続き) 









 毎日新聞社 『昭和史全記録』
(毎日新聞社 1989年3月発行 全1353頁)

第330頁に「ソ連参戦」とのタイトルで8行の記述がある。
第689頁に「シベリア墓参」とのタイトルで10行の記述がある。
シベリア抑留及び日本人捕虜の強制労働に関する記述はない。
ましてや、日ソ戦争の戦死者に関する記事や、戦後の日本人
捕虜(軍人及び民間人)の拉致移送や、シベリア奴隷労働被害で
16万人以上が死亡したことに関する記述は、どこにも見当たらない。
 


②①渡部昇一監修、水野靖夫著
『日本人として最低限知っておきたい近現代史の必須知識』
(PHP研究所 2006年1月発行 全190頁)

明治維新から、北朝鮮による日本人拉致事件・ODAまでの
日本の近現代史の45の重要事件を項目として取り上げ解説している。
【シベリア抑留】については第84頁において下記の通り解説している。

「ソ連は約60万人の日本人をシベリアに強制連行し、強制労働を
課した。極寒のシベリア収容所で飢えと寒さで死亡した抑留者は
6万人以上といわれてきた。
 


この「抑留者総数60万人、死亡者6万人」というのが定説ではあるが、
最近、死亡者数が8万人以上ということが明らかになってきた。
しかしまだすべての実態が明らかになったわけではなく、
実際はこれを大幅に上回るともいわれている。


シベリアに強制連行されたのは、日本が「ポツダム宣言」を
受諾し終戦となった後であり、しかも中立条約有効期限中である。
交戦中に捕らえられたり降伏した、国際法に則った「捕虜」ではない。
強制連行・拉致された「抑留者」である。
 


開拓移民団等の在満邦人はソ連軍の略奪・虐殺に遭いながら
難民となって逃れた。その逃避行はさながら生き地獄であった。
そのときの一般民間人の犠牲者は18万人以上といわれている。
そのとき、親と離れ離れになった子供たちが、いわゆる「残留孤児」
といわれる人々である。」

②②原康史著 『激録 日本大戦争 第39巻(最終巻)
満州・北方領土の悲闘』(東京スポーツ新聞社 1993年6月発行 全283頁)
 


日ソ戦争について第43頁から第250頁まで、207頁にわたって
詳しく述べている。しかしながら、【シベリア抑留=シベリア奴隷労働被害】
については、第227頁~第228頁に『関東軍将兵達はシベリア抑留へ』
と題して、「ソ連軍はこれまでに満州各地で日本軍の武装解除を行っており、
この時点までに武装解除をした日本軍の将兵を徹底的に無法に取り扱い、
シベリア各地に送りこんでいた。集合地点(主要都市)までは徒歩で、
そこからは鉄道で輸送されたのだが、途中、非武装の日本軍将兵は
ソ連軍兵士達の暴行、虐待を受け、所持品はことごとく略奪されたという」と
記述されているだけで、その後の悲惨な奴隷労働についての記述はない。
 



 ②③木坂順一郎著 『昭和の歴史第7巻 太平洋戦争』
(小学館 1982年12月発行)
第328頁

8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は南樺太・満州・
朝鮮へ進撃した。当時、関東軍は24個師団、約75万の兵力を擁していたが、
常設の15師団などを他方面へ引き抜かれたあと、現地の在留日本人を
根こそぎ動員して新設された師団が多く、素質も装備もおとっていた。

しかも関東軍は、7月5日、朝鮮とソ連の国境に近い図們-新京-大連に
かこまれた満州南東部を確保して持久するとの方針を決定しており、
その外側にいた在留日本人は事実上見殺しにされる運命にあった。
 


敗戦の時点での在留日本人は約155万人(うち開拓民は約20万人)
といわれ、ソ連参戦から日本への引き揚げまでに約17万6000人
(うち開拓民約7万人)が死亡した。

またソ連軍の進攻にさいし、日本軍民にたいする
多くの暴行、略奪、強姦事件などが発生し、
混乱が倍加された。多くの中国残留孤児が生まれ、この問題は
戦後37年以上たったいまもなお未解決のままのこされている。

また樺太では、2週間の戦闘で4200人~4400人の死者をだした。

②④金原左門・竹前栄治編 『昭和史』 (有斐閣選書 1982年6月発行)
第224頁~第228頁








ソ連参戦-おき去りにされた満州移民

1945年8月8日、ソ連は日本にたいして宣戦布告し、同日夜から
9日未明にかけ、ソ満国境の極東ソ連軍は、機甲兵団を中心とした
150万の兵力をもって、東・西・北三方面から満州に侵入した。
新京めざして突進するソ連軍のまえに、弱体化していた関東軍は
各所で寸断されて大混乱に陥った。

かねてより対ソ戦の基本戦略は、開戦と同時に攻勢をとるとされていた。
しかし太平洋戦線の窮迫により、43年を境に関東軍の現役師団は
つぎつぎに南方に抽出・転用され、かわりに補充されたのは編成・
装備の劣る新設師団ばかりであった。そのため大本営は対ソ静謐保持を
旨とし、開戦となったばあいは満州国の四分の三を放棄し、
通化を中心とする東南部に複郭陣地をつくって持久戦をはかる
計画をたてていた。
 


45年6月には根こそぎ動員によって兵員だけは70万にのぼったが、
10万は銃剣すら持たず、ほとんどがろくに訓練も受けていない
というありさまであった。そして持久戦略にもとづいて陣容を
たてなおしているさなかに、突然開戦となったのである。

各地で激戦が展開されているとちゅうに、8月15日、日本は降伏し、
18日停戦命令が出された。こうしてソ連軍は満州全土を制圧したが、
関東軍の指揮系統が混乱していたため、孤立した部隊の散発的戦闘は
8月末までつづいた。

ソ連軍は各地で暴行・略奪を働いたばかりでなく、施設を持ち去り、
武装解除された日本軍捕虜をシベリアその他のソ連本土に抑留して
強制労働に従事せしめた。
 


さらに、ソ連軍が46年はじめに撤退したのち、満州は国民政府軍と
中共軍の戦場となった。四合屯高知開拓団(吉林省舒蘭県)の
在満国民学校校長であった後藤蔵人は、8月11日、軍人や
その家族を乗せた列車が南下するのを不可解た気持ちで目撃した。
四合屯の開拓民がソ連参戦のしらせを聞いたのはその日の夕方であった。
同時に、彼らは遠雷のように響く爆撃音を聞いた。四合屯の人びとは
16日に日本降伏を知らされたが、的確な情報や指示は与えられず、
「世の中のことはなにひとつわからない存在」としておき去りに
されたのであった(後藤蔵人『満州-修羅の群れ』)。
四合屯の開拓民ばかりではない。軍は対ソ作戦の変更や戦力の
いちじるしい低下をソ連に気づかれないようにするため、
軍の状態を秘密にし、さらに居留民を動かせばその企図が
明らかになってしまうとして、150万をこえる在満日本人の
安全より軍事目的を優先させていたのである。

こうして遺棄された居留民を待ち受けていたのは苛酷な運命で
あった。
 






開拓民「死の逃避行」 

とりわけ悲惨だったのは国境地帯や奥地の開拓団であった。
1937年に広田内閣の7大国策のひとつとしてたてられた
満州移民の推進は、移民を治安政策の基礎にしようともくろんだ
軍と、農村の窮乏を移民によって救済しようとした拓務省の合作の
産物であった。同年20か年100万戸移民計画が策定され、
満州拓殖公社が設立されてから満州移民は本格的になり、
45年8月には入植した開拓民の数は27万に達していた。
開拓民の入植地は未利用地主義をたてまえとしていたが、
多人数の開拓団が集団で入植するため、実際には中国農民の
土地を安い価格でとりあげることが多かった。
土地を追われた農民は反満抗日闘争にたちあがり、
しばしば開拓村を襲った。
 


開拓民はこうした状況のなかで満州の曠野におき去りに
されたのである。四合屯開拓村では、8月下旬のある日、
朝鮮人部落民が独立を祝った。9月のはじめ、武器徴発と称して
やってきたソ連軍が、時計その他の貴重品を略奪し、
婦人に暴行を働いた。中旬、匪賊の襲撃をうけて家財道具を奪われた。
そうして、身ひとつになった老幼婦女子の死の逃避行がはじまる
のである。
 


北安省緩稜県瑞穂村は団員886人(うち96人は現地召集)を
擁する大開拓団であったが、9月にはいって再三襲撃をうけて
前途を絶望した村民は「コノ上、生キテ彼ラノ玩具トナルヨリ
イツソ自決スルコト」として、約600名の集団自決者をだした。
「自決セル約600名ノ大部分ハ婦女子ニシテ、ソノ氏名定カナラズ」
(「北満農民救済記録」合田一道『.死の逃避行』)。
壮年男子のほとんどが根こそぎ動員で軍隊に召集されていたので、
開拓団に残っていたのはほとんどが老幼婦女子であった。
開拓民たちは、逃避の途上、再三中国農民やソ連軍の襲撃をうけ、
歩けなくなった者は自殺したり、住込みや日雇労働者になって脱落し、
足手まといの子どもを前途をはかなんで殺す親もあった。
 


難民となった開拓民や一般居留民は、停戦後も引揚げのめどがたたず、
主として南部の都市に集まって、日雇労働やその他の手段で
かろうじて生活していたが、なかには中国人の妻になる婦人や
子どもを売る親もあった。さらに冬になると、栄養失調や伝染病で
死者が続出した。在満日本人は155万人、死亡者17万6000人
であるが、そのうち開拓民27万人、その死亡者は7万8500人に
のぼった(『満州国史』総論)。 







シベリア抑留

ソ連軍の捕虜となった満州・北朝鮮・樺太・千島の軍人・軍属は、
9月ごろから翌年秋にかけ、シベリアをはじめとするソ連領内の
各地の収容所に送られて、採炭・伐採・建築などの強制労働に
従事させられた。

わずかの食糧で、飢えにさいなまれながら、酷寒の地で
重労働を課されたこれらの人びとの運命もまた苛酷なものであった。
とりわけ1年目の冬には死者が続出した。
 


栄養失調で死ぬ兵隊がふえてきた。作業整列の鐘が鳴り、
隣の戦友をゆり起こすと、もう死んでいる。
作業から帰って来てやれやれと兵舎の前に坐りこんで、
靴紐を解きながら、ごろりと横になるともう死んでいる。
栄養失調で死ぬのはロウソクの火が消えるようなものである。
いつどこで誰バッタリ死ぬか分からない。
(相見利嗣『捕虜の見たシベリア』)

厚生省の推定によれば、シベリアに抑留された者57万5000人、
死者5万5000人。引揚げが始まったのは49年で、50年5月
には大部分の者が帰還したが、その完了は日ソ国交回復が成った
56年を待たねばならなかった。
 






③日本の中学・高校の歴史教科書

戦後63年経って、沖縄県民の強い抗議をうけて、文部科学省は
08年6月30日、歴史教育について、やっと沖縄戦の悲劇と、
ヒロシマ・ナガサキの原爆の悲劇と、米空軍の無差別焼夷弾爆撃の
悲劇について詳しく指導するよう指導要領を改めた。

日ソ戦争・戦後の奴隷労働被害と、満州・北朝鮮における
ソ連軍の強姦・暴行・殺戮・略奪・奴隷狩りついては
歴史事実隠ぺいを改める様子はない。
 







現在中学の歴史教科書は8社から、高校の「日本史A」は4社から
出版されている。
以下の記述が全文である。抜粋ではない。
 









中学の歴史教科書

平成18年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される)

①日本書籍新社
「ソ連も日ソ中立条約をやぶり、8日に日本に宣戦して満州・千島・
南樺太に侵攻した。」
②清水書院
「ソ連は8月8日、ヤルタ協定にもとづいて日ソ中立条約を破棄して
参戦し、満州・朝鮮北部さらには千島北部に侵入した。」
③東京書籍
「ソ連も日ソ中立条約を破って参戦し、満州・朝鮮に侵攻してきました。」 

 ④日本文教出版
「8月8日、ソ連が、日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や朝鮮に
攻めこんできた。満州などにいた日本人は飢えになやまされながら、
日本に帰るべく、苦しい日々を強いられた。」
⑤帝国書院
「ソ連も日ソ中立条約を破って、「満州」や樺太などにせめこんできました。
ソ連の参戦後に捕虜となってシベリアに抑留された人からも多くの
死亡者が出ました。中国には敗戦後、「満州」で肉親と生き別れて
中国人に養育された数千人の「中国残留日本人孤児」がいます。
この人たちの肉親さがしが1981年からはじまりましたが、身元が
判明した人たちはわずかです。」
 

 ⑥大阪書籍
「ソ連は、8月8日、日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定に
もとづいて満州や南樺太と千島列島に侵攻を始めました。
日本軍がすべての戦線で後退していくなか、現地の日本人の
なかには、ソ連軍や中国の人々の攻撃にあい、後々までも
中国に残留しなければならなくなった婦女子たちもいました。
また、約60万人の日本兵が捕虜としてシベリアに抑留され、
数年にわたって強制的に働かされて、多くの犠牲者を
出しました。」
 


 ⑦教育出版
「8月8日には、ソ連がヤルタ会談のとり決めにしたがい、
日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦し、満州や南樺太、千島に
攻めこみました。戦争の終結により、中国にいた多くの日本人が
飢えなどで亡くなったほか、残留孤児として残された者もいました。
また、降伏した約60万人の日本兵がソ連軍によってシベリアに
送られ、強制労働に従事させられました。(シベリア抑留)」
⑧扶桑社
「8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、
翌9日、満州に侵攻してきた。」  







高校の歴史教科書

平成19年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される。)
日本史は『日本史A』と『日本史B』と2種類ある。
近代史に重点をおいて記述されているのが『日本史A』である。
高校『日本史A』の価格は文部科学省の指示で635円が上限
と定められている。この価格で利益がでるよう、各社が頁数と掲載
する画像数などの記載内容を決めている。
 


 ①三省堂『日本史A』
8日にソ連が日本に宣戦布告してポツダム宣言にくわわると、
翌9日、アメリカは長崎に原爆を投下し、およそ7万人の命が奪われた。
中国東北地方などで敗戦をむかえた日本軍兵士など、約60万人が
ソ連の捕虜となり、不法に強制連行されて、ソ連やモンゴルなどの
収容所に抑留された。彼らは重労働を課せられたうえ、
寒さや食料不足もあって、抑留が終わる1956年までに
6万人以上が死亡した。
 


 ②東京書籍『日本史A』
中立条約を結んでいたソ連は8日、日本に宣戦布告し、
満州・朝鮮に進撃した。・・・いっぽうソ連軍は、8月中旬から
下旬にかけて、千島列島に上陸して日本軍と戦い、占領後、
軍政を布告した。中国東北部などでソ連軍に武装解除された
日本軍兵士約60万人はシベリアに送られた。このうち
約6万人が死亡した(シベリア抑留)。
 


 ③第一学習社『日本史A』
ソ連は、8月8日日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、
翌日、満州・朝鮮などへ攻めこんだ。現地は混乱をきわめ、
満州の関東軍は、開拓移民として移住していた人々など
多数の民間人をおき去りにしたまま撤退した。このことが、
こんにちまで続く「中国残留孤児」の問題を生む原因となった。
また、日本軍兵士のなかには、ソ連軍に強制連行されて、
シベリアの収容所に抑留された者も多くいた。

④山川出版社『高校日本史A』
8月8日、ソ連はまだ有効期限内にあった日ソ中立条約を無視して
日本に宣戦布告し、満州・朝鮮に侵入した。

付記:
旧ソ連の歴史教科書は日ソ戦争について、字数4,760字で、
詳しく述べている。ちなみに上記三省堂『日本史A』は183字である。
 









④北方領土問題について

外務省が2006年2月に作成した『われらの北方領土 2005年版
(平成17年度版)』の第10頁~第11頁及び裏表紙裏には
「北方領土がサンフランシスコ平和条約で日本が放棄した
千島列島に含まれないのは明白」 と書かれている。

しかし「含まれないのは明白」と言っているのは
日本政府と日本の外務省だけで、
極悪非道なスターリンのソ連政府も、
現在のロシア政府も、
対日参戦をソ連に促したヤルタ密約当時の米国政府も、
対日平和条約作成の責任者のダレス氏(その後、米国務長官)も
択捉島、国後島、色丹島は千島列島の一部であると
明確に認識していた。
 


歯舞諸島が千島列島の一部かどうかについてはヤルタ密約
当時の米国政府内部でも意見が分かれていたようである。

参考資料:竹岡勝美元防衛庁官房長の論文:
『北方領土問題の核心-「千島列島の範囲」』
『北海道で平和を考える』 北海道大学図書刊行会88年11月発行第99頁~第118頁

上記外務省のパンフレットを初めとして、数多い【北方領土】に
関する出版物も、大部分、ロシア政府とロシア国民の
【日ソ戦争はスターリンのソ連の正義の戦い】という
固い認識については触れていない。外務省の高官を始め、
有力な歴史学者たちが【北方領土】問題の核心を避けて、
マトハズレの議論をしているから
ロシアに相手にされないのである。
 


江戸時代から【北方領土】は日本の固有の領土であった
ということはロシア政府もロシア国民も熟知している。

しかし、ロシア政府もロシア国民も、スターリンのソ連は
【正義の戦い】に勝利した結果、国際社会の認知を得て、
堂々と【北方領土】をソ連の領土=ロシアの領土にした
のであると固く信じている。

【帝国主義思想】が根強く残っている現在のロシアは、
「武力によって他国の固有の領土を占領して自国の領土にした
ことは悪いことだ」という考えはない。
 


太平洋戦争敗戦前、旧日本帝国は、官民あげて、
「朝鮮半島を植民地にしたことは悪いことだ」、
「満州(中国東北部)を植民地にしたことは悪いことだ」
という意識は皆無であった。現在においてすら
韓国における【反日感情・嫌日感情】の根源になっている、
この旧日本帝国の【帝国主義思想】を理解していない人が多い。


【ソ連の正義の戦い】に敗れた【軍国主義の侵略国家・日本】が、
今さら、なにを言うのかというのが、【帝国主義思想】が根強く
残っているロシア政府とロシア国民の本心である。
日本はあらゆる機会をとらえて、
日ソ戦争は、極悪非道なスターリンのソ連が仕掛けてきた
領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得のための
不正不義の帝国主義侵略戦争であつた
と主張しなければならない。
 


関連サイト:『ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、略奪』

参考You Tube:

4分45秒でわかるシベリア抑留
(動画削除)

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 1
(動画削除)
シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 2
(動画削除)
シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 3
(動画削除)
 

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 4
(動画削除)
シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 5
(動画削除)
シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 6
(動画削除)
シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 7
(動画削除)
 



シベリア抑留体験者 極寒の記憶 絵筆に込めて
https://www.youtube.com/watch?v=LKDj9f5eTrA&feature=related











 (続く) 


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