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スターリンの命令通りに、大敗北を演出した関東軍のノモンハン戦争 (その1)

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スターリンの命令通りに、大敗北を演出した関東軍のノモンハン戦争(その1)
──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史23








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中川八洋掲示板
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2015/12/09/084014





スターリンの命令通りに、大敗北を演出した関東軍のノモンハン戦争 ──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史23


2015.12.09


筑波大学名誉教授   中 川 八 洋







西尾幹二の“世紀のスーパー「反日」本”『GHQ焚書図書開封』は、第十一巻の『水戸学』以降、音沙汰がない。西尾幹二の予告によると、第十二巻は『地球侵略国家ロシア』。だが噂では、西尾はこの巻を投げ出して、書くのをあきらめたらしい。

 この噂、嘘か本当かは未だわからない。が、歴史音痴の無知無学な“稀代のペテン師評論家”である上に、ヒトラーがロシア人に化けたような“畸形ロシア人”西尾幹二にロシア対外膨脹史など真っ当に論じることなど天地が引っくり返っても不可能だから、この噂は本当かも知れない。この場合、私には甚だ不都合で、実は戸惑っている。

 なぜなら、西尾幹二が荒唐無稽を通り過ぎて笑止千万な逆立ちロシア論の本を出版することを見通して、昨年から用意してきたそれを批判・批評するかなりの数の論文がふいになってしまうからだ。今般、そのうちの一つ、「ノモンハン戦争」に関する、自分の予備的な研究を発表するのは、なかなか出版されない西尾幹二の『GHQ焚書図書開封』第十二巻を待ちくたびれたからである。私には、徳川家康のような“待ちの忍耐”が欠如している。
 











第一節 “観客”ヒトラーに捧げたスターリン脚本の“戦争演劇”「ノモンハン戦争」 


 戦後日本で「ノモンハン戦争」研究は、八年間の大東亜戦争に関する歴史研究の中では、相対的に、少ないとは言えない。むしろ、歴史の片隅に追いやられ現在の日本人が完全に忘却した多くの戦闘・戦場の歴史に比べれば、格段に多いともいえる。歴史学の範囲には含められない、単なる戦記読み物も結構な数になる。

 これら「ノモンハン戦争」の歴史研究書や歴史小説あるいは回想記を精査すると、①戦時宣伝的なプロパガンダ本が多すぎること、②外交史からの研究論文が一本もないことなど、何か異様で奇怪な黒雲が覆いかぶさっている。特に、②のような、特定分野の研究を検閲的に禁止する特異さは、偶然ではなく意図的な操作の痕が見え隠れする。「ノモンハン戦争」関連図書の全般に通じる異様で奇怪で不可解な特徴は、ソ連邦が崩壊して新ロシア帝国に再編された1991年以降においても変わることがない。むしろ益々、強まっている感がする。
 


 具体的な例を挙げる。「ノモンハン戦争は、日本の完全なる全面敗北」を確定した1939年9月16日の停戦協定や1941年10月の講和協定(=国境画定議定書)に関する、日ソ間の交渉過程を研究した学術論文が一本もないのは、どういうわけだ。もう一度言う。ポツダム宣言の受諾やミズリー号甲板での降伏文書調印と同じ、日本側の全面敗北を日ソ間が公式に合意した1939年9月16日の停戦協定や1941年10月の講和協定(=国境画定議定書)に、「ハルハ河が満洲国の国境だ!」と外交交渉を排除して直ちに戦争で決着をつけようとした陸軍参謀本部や関東軍参謀部が何らの条件をつけず静かに「了解=受諾」した謎について、学術的研究が全くゼロなのは、どういうわけだ。 



 歴史の真相は、東京の帝国陸軍参謀本部も満洲・新京の関東軍も、スターリンから渡された「“凄惨な大敗北”の対ソ戦を演じよ」のシナリオに従った対ソ戦争を完遂したことで十全に戦争目的を果したと満足していたからだろう。要するに、「ノモンハン戦争」は、出先の関東軍の暴走の形をとった、陸軍全体が事前にスターリンと打ち合わせた“日本の大敗北を演劇する対ソ戦争”だったと推断してよかろう。

 「ノモンハン戦争」の敗北を糊塗すべく辻政信などを美化するトンデモ有害本はむろんだが(注1)、それ以外の「ノモンハン戦争」関連書が次から次に出版されるのは、「ノモンハン戦争」の最核心の真実を隠蔽したいからと思われる。特に、「ノモンハン戦争」の1939年夏から五十年以上が経った1991年以降、“真赤な嘘プロパガンダ”「日本は負けてなかった」を垂れ流す出版物は、日本側の計画的な大敗北とそれがスターリンからの命令遂行だったことを隠蔽するための“真赤な嘘プロパガンダ”が目的である。日本国民を騙すための偽情報宣伝である。
 


 この典型は、学術的なものでは田中克彦の『ノモンハン・ハルハ河戦争』(シンポジウムは1991年5月)、歴史小説では半藤一利の『ノモンハンの夏』(初出は1997年)。田中克彦はロシア対日工作員だし、半藤一利は人も知る名うての日本共産党員。

 戦闘による戦死戦傷者数の比較にすり替えての、「ノモンハンで、日本は負けてなかった」などの馬鹿馬鹿しい“真赤な嘘プロパガンダ”を洗浄除去して、われわれ健全な日本国民は、「ノモンハン戦争」の真相を抉りださねばならない。それこそが、日本の祖先が歩んできた苦衷と悲惨な歴史の正しい真実を手にして、我ら真正の日本国民が、ロシアの情報奴隷から自由を復権することである。ロシアに本籍を置く“歴史の偽造屋”が跳梁跋扈して腐敗と狂気で朽ちなんとする現在の日本から、嘘や虚偽を除菌的に排斥して“清浄されて明朗なる歴史”が満ちる国に再生しなければ、日本人は歴史を失う。

 これが、研究はまだ中途にも拘らず、ノモンハン戦争に関する私の研究の一端をここに披瀝する理由である。
 













軍事史は、外交史/戦史/諜報謀略史の三分野を総合する上位の学問  




日本の大学は、国際的には劣化が激しく、特にその文科系は今や“愚者たちが戯れる楽園”となった。世界が呆れるように、日本の大学の文科系学部は、“教授は馬鹿か赤ばかり、学生はアホかバイトばかり”となった。当然、これらアホバカ教授たちは、学問のイロハすら教えることができない。例えば、現代史は六つのサブ分野の総合だが、現在、日本の大学教授は、これすらわからないのがほとんど。

 六つのサブ分野とは、1;ソ連の対日非公然工作史(諜報謀略史)、2;軍事史(戦争史)、 3;外交史、4;戦史(戦闘経過史)、5;政治史、6;財政・経済史のこと。

 
 具体的な事例で再説明すれば、大東亜戦争の歴史全体を真正面から研究するのを、軍事史研究という。この軍事史研究をするためには、「ソ連の対日非公然工作史(諜報謀略史)/軍事史(戦争史)/外交史/戦史(戦闘経過史)」に関しての該博な知識が必要。なぜなら軍事史は、これら三分野を踏まえてそれを上位に総合する学問だからである。チャーチルの『第二次世界大戦』(要約版が河出書房新社)は、軍事史研究の白眉で、ノーベル文学賞の受賞作品となった。リデル・ハートの『第二次世界大戦』(フジ出版社)は、これに次ぐ(注2)。  

 だが、日本の歴史学者は国際的には頭が悪く2ランクは低いため、軍事史の範疇に属するこのような通史を書ける学者がいない。さもこの種の通史かに誤解されている服部卓四郎の『大東亜戦争全史』は、服部がコミュニストでソ連工作員である証拠資料の一つで、服部を犯罪者として裁く刑事法廷には用いても、学術性あるものとして扱うのは本末転倒。  

 話を、第二次世界大戦/大東亜戦争の全体でなく、その一部である「ノモンハン戦争」
 


に戻す。ノモンハン戦争に関する軍事史研究で、日本の学者・研究者が書いた価値あるものはほとんど存在しない。最もひどいのは戦史叢書『関東軍1』。軍事史ではなく戦史やその回想記も、辻政信『ノモンハン』のように、戦争の真相を隠蔽せんとする犯罪的手口が露わで、読んでいて気分が悪くなり嘔吐を催したくなるのが多い(注3)。

 私が評価している「ノモンハン戦争」研究書には一冊だけある。岩城成幸の『ノモンハン事件の虚像と実像』(2013年)。その第七章は、諜報謀略分野への視点でまとめられている。分量的にも分析的にも不十分であることに目を瞑れば、ノモンハン戦争の真相を解明する萌芽的方法の提示になっている。

 米国人の著作だが、ゴールドマン博士が2012年に出版した『ノモンハン1939』(邦訳は2013年、みすず書房)は、諜報謀略史分野の論及が全く欠如する瑕疵はあっても、また独ソ不可侵条約締結のためノモンハン戦争を画策して惹起せしめたとの最核心には気づいていないが、ノモンハン戦争を独ソ不可侵条約締結と結びつけた点で、方法論的に軍事史研究の良書である(注4)。

 ノモンハン戦争の戦史研究といえば、戦史叢書『関東軍1』を除けば、秦郁彦の『明と暗のノモンハン戦史』と牛島康充の『ノモンハン全戦史』が代表。だが両書とも、表題の通りに“戦史”に視野狭窄して、上位の“軍事史”に昇格させようとの気配がない。戦史研究としての彼らの努力は十分に理解する積りだが、両名が軍事史・外交史・諜報謀略史に牽連・総合化しようとしない発想には賛成できない。
 















1939年春のスターリンの脳内を解剖する  


第二次世界大戦の主役を演じた戦争主義者トップ・ツーは、ともに世界史に残る外交天才であった。いうまでもなく、ヒトラーとスターリンの二人である。スターリンは二正面作戦を回避することを絶対としたが、これを評価上の最重要要素とみなせば、ヒトラーを凌ぐ天才の中の天才であった。

 世界共産化という最終目的を狂信する“地球規模の大宗教家”でもあると同時に、戦争後を透視できる未來予見力のIQを持つスターリンの、その世界を見詰める眼光は、尋常な政治指導者の及ぶところではない。1938年3月~39年3月、大膨張を開始したドイツの牙からソ連を防衛するに、スターリンはまず次のように判断した。  

 第一は、ヒトラーは“脅迫によるチェコ解体併呑”のあと必ずポーランドを軍事占領し、その勢いのままソ連に侵攻する。それは、表1に示すヒトラーの東欧併呑・侵略のトレンドにおいて明白すぎる。これを阻止するのは、ヒトラーに「ソ連軍は意外に強く、簡単には軍事的制圧など出来ませんよ」のメッセージを与えるしかないこと。







表1;ヒトラーの東欧侵略・併呑に恐怖したスターリン


 (クリックで拡大) 

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 しかもこの間、1938年11月、スターリンは、スペイン共産革命=ソ連の衛星国化に失敗し自らの軍事的敗北を喫し愕然としていた。スペイン内戦の結果は、1939年2~3月、フランコが勝利しスペインはナチ・ドイツ勢力圏に陥り、ナチ・ドイツが事実上、西欧・東欧の覇者になるのを確実にした。その上、一歩間違えばソ連自体がドイツに急襲される事態こそ濃厚となった。特に、ナチ・ドイツに日本が連動して東側から侵攻すれば、ソ連は“万事休す”に陥る。







表2;人民戦線政権の敗北と瓦解=スターリンのスペイン軍事制覇の破綻

 (クリックで拡大) 


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 ここに、スターリンの一世一代の対独外交が展開された。ナチ・ドイツの対ソ侵攻を阻止すべく、ヒトラーの対ソ戦争を躊躇させ、それを思い止ませる秘策の実行である。この秘策の中でも最高なものが、ヒトラーに独ソ不可侵条約を締結させることであった。

 この目標に向かってスターリンは、外面的には、対ヒトラーへの阿諛を始めた。1939年3月10日のスターリン演説はその一つ。「ソ連は英仏など信用しない、だから英仏と組んで対独包囲網など決して参画しません、信用するのはヒトラーのドイツだけです」、と。  

 むろん、『わが闘争』で内外に宣言したように、スラブ民族への蔑視においてロシアの制覇も考えていたヒトラーは、「スターリン演説」ぐらいで対ソ政策を大転換する気はさらさらない。スターリンは、外務大臣を、ヒトラーが嫌いなリトヴィノフを馘首して、ヒトラーに気に入って貰えそうなモロトフに変更した(5月3日)。これはかなり功を奏した。ヒトラーはスターリンと組む方策も、検討する範疇に入れた。  

 だが一方、ヒトラーは、スペインでの対フランコ将軍との戦いで、戦車T-26などを持ちこみ恥ずかしいほどに弱さを露呈したソ連など、ドイツ軍にかかれば鎧袖一触で粉砕できるとも確信していた。スターリンは、ヒトラーに「ソ連軍はそれなりに相当強い」を見せなければ、ヒトラーの対ソ侵攻を招くと戦々恐々だった。





 スターリンが“ソ連の衛星国”外蒙古と極東ソ連軍に(関東軍内に外蒙古・満州国の国境線とは考えない見解もあることにおいて、国境未画定ともいえる)ハルハ河を超えた「越境」を命じたのは、モロトフ起用直後の5月11日である。わずか数十名の小部隊の「越境」であった。

 (ここからは仮説である)

 つまり、ヒトラー様に、「ソ連軍はそれなりに相当強いですよ」を急ぎ見せなければならない窮地のスターリンは、“子飼いのソ連工作員”小松原道太郎(=未確定国境地帯「ハルハ河―ノモンハン」の近傍ハイラルに駐屯する第23師団の師団長)に対して、「大敗北する対ソ戦をせよ」との命令(1939年2月下旬~3月上旬)を発したと考えられる。日本の関東軍を打ち負かす戦勝劇の他に、ヒトラーの対ソ侮蔑観を、「ソ連も結構強いではないか」に転換させる策はスターリンには見当たらなかった。

 小松原からの「了解した」の返電は、四月末には受けとったのだろう。スターリンとしてはまず小松原の返電が信用できるか否かを確かめる必要があり、上記数十名の小部隊を侵入越境させたと考えられる。それが「第一次ノモンハン事件」のスタートである。

 双方が相互に相手の意思を確認するための“ジャブの出し合い”「第一次ノモンハン戦争」を通じて小松原道太郎を信用したスターリンは、その直後、小松原と阿吽の呼吸での本格的でド派手な戦争活劇を演じる第二段階に移行した。それが、(五月下旬の)ジューコフの前線到着によって始まる「第二次ノモンハン戦争」。ジューコフの前線到着は、『ジューコフ回想録』の六月五日ではなく、正確にはその一週間ほど前。




 すなわち、「ノモンハン戦争」は、小松原師団長がハチャメチャに拙劣な指揮を執ったことによって、あれほどの大損害を出し大敗北したのではない。「大損害を出して大敗北する」計画において初めからそうしたのである。(仮説ここまで)

 「ノモンハン戦争」後に、日本では参謀総長が監督する『ノモンハン事件研究報告』など、多くの反省がなされた。が、どれもこれも、日ソ間の密約に忠実に従った「日本側の大敗北戦争劇」とは捉えていない。むしろ、これらの反省もまた、「ノモンハン戦争」の真相を隠すことに貢献した。

 戦後出版の良識的な「ノモンハン戦争/陸軍批判」で、この核心を突いたものは皆無。須見新一郎(第七師団26連隊長)の小松原師団長批判も、「ノモンハン戦争」それ自体が“国家反逆の犯罪”だとするものではなく、戦場の指揮官としての余りの大欠陥を悲憤して率直に指摘するに留まっている。
 




 例えば、「身を隠すすべとてない砂の大地にへばりついているより、一歩を譲って将軍廟付近まで下がれば、対等の条件で戦えるものを…」などは、戦術的には正論(注5)。だが、小松原は日本側の被害をできる限り最大化せんとした作戦を実行したのであって、無能だったのではない。






(続く)





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