30 防衛大を赤化した「KGB工作員」猪木正道
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猪木正道
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30 防衛大を赤化した「KGB工作員」猪木正道
2008年04月24日 09:49
中西輝政は、対抗・対処が比較的に簡単な、中共のハニー・トラップ工作のたった一つの事件に、なぜあんなに興奮して大仰しく書きたてるのだろう(『諸君』2006年3月号、32頁)。ポルノ映画に興奮する15、6歳の劣情少年に似た、卑猥性が漂う変な人物が、どうやら中西である。
上海で日本の領事がハニー・トラップにひっかかり自殺したのは事実だが、この自殺によって、中国共産党の諜報活動のほんの一端が暴露されたプラス効果の方については、中西は躍起になって隠そうとする。なぜだろうか。本件に関する限り、日本側の被害は(暗号をすべて更新すれば)中断したにすぎない。現実には、同様なケースは、1970年代、法眼晋作(外務次官)の長男(一等書記官?)もモスクワでハニー・トラップにかかって自殺したように、かなり頻発している。
ハニー・トラップへの対抗・対処は、人間の生理でもあるので敵国からのハニー・トラップの根絶はできないし、標的となり籠絡された全員が自殺してくれるわけではないので、まずは、アメとムチの申告制度を厳格に適用するしかない。敵国のハニー・トラップの方法を籠絡された自分のケースで詳述の申告をした場合は処分しないが、申告しなかった場合には懲戒免職と新聞発表の処分をする制度である。むろん、これは補完的であり、正しくは外務省内に職員監視局を設けて、常時、一人ひとりを監視する制度が常道である。
女性外交官の場合は、上記の申告制度で申告してくる可能性はほとんどない。かつて航空自衛隊(のち防衛研究所)のMK嬢がベオグラード(セルビア)にロシア語研修留学中、ソ連KGB第1総局のデニーソフ大尉(在日時の偽装最終役職は大阪総領事、KGB少将)と性的関係をもち、生涯、ロシアのスパイであり続けたが、このMK嬢が申告などしないのは自明であろう。ロシアは、女性を落す場合、手練手管の飛び切りのイケメンを近づける。女性外交官の場合、40歳を超えるまでは、敵性国家(ロシアと中共)に勤務や留学を決してさせない制度化は不可欠である。
だが真に難しい問題は、「ハニー」の提供を逆に相手国に要求し享楽する「罪悪感ゼロ」の学者と政治家をどうするかである。現職の総理大臣でありながら、その女が中共の「くのいち」工作員と知りながら、セックスに現を抜かした橋本竜太郎のようなケースの多さは、外交官の比ではない。
1、 無料セックス旅行会――末次/佐瀬の「日ソ専門家会議(日露専門家対話)」
日本の「ロシア専門家」「北朝鮮専門家」「中国専門家」の過半は、ハニー・トラップにひっかかている。現実には、二十歳前後の超美人とセックスをふんだんに楽しむために、モスクワや北京や平壌(ピョンヤン)での会合に参加しているのが多い。中には、東京外国語大学の露語科出身者を詳査すればわかるように、ハニー・トラップが目的で学生時代から「ロシア専門家」を志したのも多い。
ロシア・ハニートラップを享楽する代表は、何と言っても猪木正道であろう。「トンデモ学者」猪木が、モスクワで抱いた二十歳前後のとびきりのロシア美女の数は三十名をくだらないという。親ソの「自称ロシア専門家」になれば、いつでもロシア美女で歓待する制度を創った人物こそ、プリマコフと末次一郎であった。その具体的組織が、“悪の学者サークル”「日ソ専門家会議」であった。第一回は田中角栄を標的とし、田中に(北方領土の返還なしで)シベリア開発に決断・合意させるのを目的として1973年にモスクワで開催された。
「日ソ専門家会議」は、形式的には日ロ双方の学的な研究機関の合同主催としている。ロシアKGB第一総局側はその直属の部局であるIMEMO(世界経済国際関係研究所)が、日本のKGB支店側としては末次一郎が表向きの代表を務めるが実質的にはソ連のフロント組織「安全保障問題研究会」(この運営費は全額KGBもち)が担当することになった。その主たる目的が、北方領土返還を永久に妨害することであるのは言うまでもない。
つまり、「日ソ専門家会議」は、日露間の識者・外交関係者等の会議のような偽装された、実は日露双方ともKGBに所轄された“KGB八百長会議”である。この会議の目的を達成すべく考えられた手段が、日本側参加者の「自称ロシア専門家」や国会議員にハニー・トラップを仕掛けることであった。また、この会議に出席した“ロシアの犬”になった、これらの「自称ロシア専門家」に、さも領土返還のエキスパートかのような権威と偽イメージを付加して、外務省や政府・自民党に対する、日本の対露外交を逆方向に誤導する工作をさせるのが主たる目的である。
「日ソ専門家会議」は、2005年から、名称を「“新しい日ロ関係”日露専門家対話」と変えた。2006年3月のそれは、新名称では2回目に当たり、「第一回・日ソ専門家会議」からの通算では24回目。また、佐瀬昌盛が、末次の死去に伴い、2001年から、この「安全保障問題研究会」の代表を引き継いだ。セックス漬けで日本の学者を籠絡する方法も継承した。女好きの佐瀬昌盛は、モスクワでKGB提供の飛び切りのロシア美女とのセックスを猪木正道と一緒に堪能した人物で、どんな不正でも平然となす、その生来の犯罪者性でKGBに深く信頼され、末次一郎の後釜になった。
また、「安全保障問題研究会」は、この「日露専門家対話」のほか、1997年から、同じくKGB(SVR)の指揮下に「サハリン・フォーラム」を開催し、2007年9月には第10回を東京で開催した。「サハリン・フォーラム」の目的は、?北方領土の返還を永久に妨害することと、?樺太を開発し発展させ、樺太を(東シベリア本土に依存しない自給的な)対日侵攻ができる大規模なロシア地上軍・空軍基地の島に改造することである。すなわち、わが国(北海道)に対する侵略幇助が主目的である。
そこで、「インテリジェンス・リテラシーの大家」中西輝政に問い質したい。ロシア側の提供する贈賄としてのセックス饗応を積極的に楽しむ、日本のハレンチ学者・売国奴学者(=KGB工作員)の大群をどう規制するのか。自殺などしない、ハニー・トラップに良心を咎めない、KGB系の日本の学者・政治家を処断する対応方法と制度化について、中西大先生!黙さずに提案していただきたい。「判らないら」の弁解は通じない。なぜなら、小説まがいであれ、『国家情報論』を書いているではないか。中西が、この問題に触れたくない本当の真意は、ケンブリッジ大学留学時代に享楽した、KGBの女との関係を、噂以上に詮索されたくないからではないのか。
2、「スターリン教徒」――猪木正道の正体
日本では1920年代末から、スターリン大ブームが発生しており、スターリン教徒は著名人でも百人二百人をはるかに越える。そこで、1953年3月のスターリンの死没以降に、日本共産党員以外で、スターリン教徒であると自ら闡明した人物に限定すると、猪木正道、丸山真男、中曽根康弘らが挙がる。
丸山真男は、レーニン/スターリン教徒であった南原繁の直弟子で、フルシチョフのスターリン批判に対して、逆にフルシチョフの方を批判して“スターリン擁護”にでた、もっとも勇敢な過激コミュニストであった。『世界』1956年11月号の「<スターリン批判>の批判」がそれである。丸山は、座右の書として、スターリンの『レーニン主義の諸問題』を死ぬまで離さなかった。
中曽根康弘とは、1954年7月、日本共産党の代理でストックホルムにあるソ連のフロント組織「世界平和評議会」に出席するなど、筋金入りのコミュニストである。その帰り道、モスクワと北京で、親ソ・親中共の立場から、吉田茂内閣の打倒を、その親米と反共反ソを理由に、絶叫した。1959年3月、北京で「米国は日中人民の共同の敵」と絶叫した浅沼稲次郎は、マルクス・レーニン主義系の極左として、この五年前の中曽根を継承・模倣しただけである。中曽根がKGBと太い絆をつくったのは、この1954年のモスクワにおいてであろう。
1956年5月、北方領土返還妨害のために日ソ漁業協定締結をした河野一郎(農林大臣)が、自分の股肱の同志に中曽根を選び、引退に際し河野派を中曽根に禅譲したが、その最大の理由は、両名とも、自民党に所属するKGB直属のコミュニストだったからである。なお、河野一郎がコミュニストになったのは、大地主であった父親が農地解放でたった一町歩の並みの農家に転落させられた恨みからである(本人の証言)。河野一郎が大学時代、間借りしていた日露漁業の社員寮の、その部屋はマルクスの本ばかりであった。このとき、河野は、労働価値説に傾倒していた。
中曽根が真っ赤なコミュニストだと正確に洞察していた人物には、吉田茂とウィロビーがいる。しかし、こんなことは、多少の学識があれば、誰にでもわかるはずだろう。
まず、中曽根本人は、矢部貞治(スターリン主義のコミュニスト、GRU工作員)と南原繁の弟子であるのを誇っている。南原とは、過激な天皇制廃止論者であり、教育勅語つぶしの立役者である。教育勅語つぶしで同志だったケーディス大佐以上に先鋭的であった。また南原は、サンフランシスコ講和条約に関して、ソ連の要求を代弁して、南樺太と国後・択捉島のソ連譲渡を叫び、「曲学阿世」の異名をとった。中曽根が本当に「右」とか「保守」だったら、南原と矢部を非難しているはずではないか。しかし、賞讃している。
中曽根の「右」「タカ派」の演技力は、歌舞伎俳優を凌ぐ、世界的にも第一級の名優である。これほど自分の思想隠しに成功した例は、日本ではむろん例がなく、海外でも英国のキム・フィルビーぐらいしかいない。中曽根康弘のことを「日本のキム・フィルビー」と呼ぼう。
中曽根が自分のスターリン崇拝を露骨に書き残したのが、1960年(日付けは1961年1月1日)に書いた、中曽根憲法草案である。中曽根は「マッカーサー憲法=現憲法」に反対し改正を主張したため、タカ派のイメージが強いが、その基本姿勢は、現憲法をさらに左旋回させ「スターリン型憲法に近づけよ!」であって、事実はイメージの逆である。このため中曽根は、自分の草案を(「ある」「ある」と言いながら、実物については公開せず)ずっと隠してきた。多くの識者は、その開示を懇請してきたが、中曽根はいつも即座に拒絶した。が、何を思ったのか、三十六年を経て、1997年に突然、公表した(『正論』1997年7月号)。
平成の時代に入り日本では憲法改正を口にする保守系論客の質と知の大低下が生じていて、小堀桂一郎や日本会議など、スターリン憲法と(明治憲法など)英米系憲法の差異すら識別できない“バカ・アホ・間抜け”しかいなくなった、「保守の絶滅」の時代が到来したのを正しく見抜いたからだろう。中曽根の予測は的確で、どこからも批判も驚きの声も起きなかった。
中曽根憲法草案は、スターリンへの憧憬と尊敬を土台にした「スターリン万歳!の超極左憲法」というべきもので、その共産党用語の多さからしても、共産主義者でない限り、万が一にも書けるものではない。GHQ民生局に所属して、現・日本国憲法第24条を書いた、父親とともにGRU工作員だったベアテ・シロタ嬢を彷彿とさせる、準・共産国憲法草案の典型である。
中曽根康弘はまた、レフチェンコ証言(1982年7月)に顔面蒼白となり、1983年5月早々と、総理の職権で、警察庁にこの関連捜査の打ち切りを命じた。KGBコード名「クラスノフ」瀬島龍三を守るためとするのが通説だが、実は自分への火の粉を回避するためであった。中曽根のコード名は、今も、発表されていない。
中曽根が「成田空港阻止闘争の過激派」古田司(『下下戦記』等の著者)とも個人的に昵懇だったり、ロシアの北海道侵攻を幇助すべく、北海道の西と北の海岸に敷設する予定の陸上自衛隊のなけなしの対人地雷を完全に一掃・破壊させた、日本共産党員で「ソ連・ロシアのスパイ」吹浦忠正と同志であったり、その交友関係と行動には極左人脈が異常を極めて顕著に強い。ソ連との関係は、相川昭二などを見ても、尋常ではない。
中曽根康弘にかかわる、明らかにすぎ否定しようのない、KGB工作員としての数々の事実に、なぜ眼を塞げ見なかったふりをする輩が多いのだろう。日本では、国家を愛する日本人は絶滅した。
さて、猪木正道とは、スターリンが死んだとき、悲しみ嘆き、四頁に及ぶ長文の追悼文を発表した(『中央公論』1953年4月号)。この行動は、日本共産党が党本部で行った三日三晩の大葬儀に匹敵するものだった。猪木正道には『スターリン』(1951年、現代教養文庫、社会思想研究会出版部)とか、竹内好らとの共著『スターリン・毛沢東・ネール』(1951年)があって、その尋常でないスターリン狂ぶりに疑問の余地はない。これらの作品において、猪木は、大虐殺を含むスターリンの悪魔の所業をもって、救世主キリストの善導と見做していた。是非読んで欲しい。
また、1950年代初頭の猪木正道は、「同志」である大内兵衛や向坂逸郎らと、左派社会党の政権獲得に狂奔していた。京都新聞(夕刊)に左派社会党応援の半年にわたる猪木エセーが証拠として残っている。
猪木はまた、1980年7月に、大平正芳総理に頼まれた形で、「総合安全保障研究グループ」の議長として、その報告書をまとめた。ソ連軍のアフガン侵攻直後で、モスクワ・オリンピックのボイコットはむろん、カーター米国大統領は対ソ認識の誤りを国民に謝罪し、反ソ主義のレーガン出馬に米国中が沸き立って、米国も西欧諸国も一丸となって対ソ軍拡へと走り出していたとき、安全保障は軍事力以外の手段でもできると、軍事力強化阻止の詭弁づくりが、この「大平・猪木」とKGBの合作である「総合安全保障」という、まるで火星人の戯言のような、スローガンであった。
備考;それから二十八年もの一世代を経た今日、防衛大学校で、この「総合安全保障」が正しいと教えている。防衛大学校は、「共産党ーKGB」直営の洗脳工場と化している。
「総合安全保障」は、このように、共にKGB工作員で親ソ一辺倒の大平と猪木が、ソ連擁護と日本の防衛力強化を牽制するために、ソ連とも共謀して考案した、悪意ある新しいキャッチ・コピーだった。この『大平/猪木報告書』は、朝日新聞より左翼的に、ソ連のアフガン侵略を「介入」と表現したり、対ソ関係は「数年を経ずして交流の増大は可能だし必要となる」とか、日本国内に沸騰する対ソ経済制裁論と防衛力強化を揶揄し非難する、日本共産党顔負けの奇論を展開した(『総合安全保障戦略』、大蔵省印刷局、1980年)。猪木正道のソ連崇拝は、このように、生涯変ることのない共産イデオロギーからのものだった。猪木は、生涯、ソ連の工作員であり続けた。
3、防衛大学校の赤化に邁進した猪木正道
プリマコフの指揮下にあるKGB工作員として猪木正道が、赤化を図り、KGBの拠点や細胞づくりに励んだ場所が三つある。産経新聞、読売新聞、防衛大学校である。また左派社会党の革命運動家あがりの猪木は、セクトづくりにも一流の才を発揮し、パワフルな「猪木グループ」は“福田恒存イジメ”など、論壇で横暴な権力を謳歌した。
「猪木グループ」とは、通常、木村汎(日共、KGB)、袴田茂樹(KGB)、佐瀬昌盛(日共、KGB)、神谷不二、志水速雄(のち日共を離党、転向)、末次一郎(KGB)などを指す。 江藤淳は、「猪木グループ」に、粕谷一希(日共シンパ、『中央公論』編集長、外務省の『外交フォーラム』の初代編集長、KGB工作員の可能性は極めて高い)を含める。江藤のこの分類の方が1980年代を通じては、確かに、実態には合っていた。
江藤淳の激越な粕谷一希批判「ユダの季節」(『新潮』1983年8月号)は、当時センセーショナルな好評を得た。1980~3年の頃、江藤淳や福田恒存らは、“論壇の暴力団組長”猪木正道を退治しようとの動きに熱心で活発だった。不発になったのは、産経新聞社の重役の複数がKGB工作員であったからといわれる。この構図は、今に引き継がれている。
粕谷一希は、サントリー財団などを根城にして、御厨貴(日共秘密党員)や北岡伸一(日共シンパ、朝鮮人)・五百頭真(日共シンパ、現・防衛大校長)らを糾合して「粕谷一希グループ」を形成した。サントリー学芸賞は、粕谷に頭を下げないと受賞できないといわれた時期があったし、これは事実であった。
志水速雄は、1978年頃から反共・反ソへの転向の傾向が出てきたため、「猪木グル-プ」から破門を通告された。この破門騒ぎの中、胃癌で1985年に死んだ。1980年に入った頃より、志水は横須賀線の中でもしばしば吐血した。「死因は、(破門のストレスと複合した)胃癌」でないかも知れない。某組織による長期間の発癌性物質の混入による病死に至らしめた合法殺人の可能性がある。
袴田茂樹とは、芦屋大学にいた学問業績ゼロ(今もなおゼロ)の学者以前の人物だが、猪木正道が、袴田が「シベリア天皇」陸奥男の長男でコミュニストかつKGB工作員である理由において、青山学院大学にひっぱってきた、猪木特有の人事である。
神谷不二だけが、猪木グループの中で、KGB工作員ではない。日本共産党ともほとんど関係がない。しかし、血統が朝鮮人だからか、左翼傾斜は顕著である。例えば、神谷不二は、「国防」とか「防衛」とか、「国家安全保障」とか、日本を軍事的な侵略から守る概念や政策を毛嫌いする。だから、防衛学会の会長になるや、直ちに、その「防衛」を消して、国家を守ると言う「国家安全保障」という言葉すら拒否して、「国家」の二文字のない、無国籍の「国際安全保障」に名称を改悪した。
(有罪判決は一件だが、実際は植草教授よりはるかにひどいと言われる)痴漢常習者の、神谷不二の長男の神谷万丈(防衛大学校教授)は、日共シンパの反核運動家だが、これは、父親の一面を遺伝的に正しく継承している。「親父は保守なのに、息子は左翼なのはなぜだ」との、巷間に流布する疑問は、的はずれである。
猪木グループではないが、中核派出身の「極左」進藤榮一は猪木の愛弟子で、筑波大学にもぐり込めたのは、猪木正道の執拗な人事画策の成果であった。進藤の危険性を見抜いていた高坂正尭は、この人事に、猪木に初めて猛然と怒りをぶつけたという。
防衛大学校は今、特に文化系教官においては、共産党員・共産党シンパやKGB工作員で過半を超えると言われている。小泉(山崎)直美は正式党員でKGB工作員だし、外務省出身の孫崎亨もKGB工作員である。「KGB工作員の巨魁」袴田茂樹は、非常勤だが講義をしている。戸部良一も日共党員。痴漢常習者の神谷万丈も日共シンパ。西原正は、過激暴力革命団体「社青同(現、革労協)」出身の社会党員で、非武装中立の“土井たか子信奉者”なのに防衛大校長となった。防衛大は赤いどころでなく真赤である。西原正は、共産党員の吹浦忠正とも親交が厚く、今や北方領土返還妨害の担い手の一人である。KGB工作員でもあろう。
1970年に防衛庁長官になった中曽根康弘が猪木正道を防衛大学校校長(同年7月)にしたのは、防衛大学校をこのように赤化するのが目的であった。猪木は八年間も防衛大校長をやって、その赤化の基盤を磐石なものにした。佐瀬昌盛を1974年に防衛大学に入れたのは猪木だが、その理由は佐瀬が、すでに筋金入りのKGB工作員であったことによる。猪木正道のモスクワでのKGB女との酒池肉林の“ご乱交”は、スキャンダラスにも、この防衛大学校校長時代から始まっていた。佐瀬昌盛と戸部良一は、猪木の腰巾着として、防衛大赤化の急先鋒となった。
1960年代までは、中曽根康弘というと、「首相公選論=天皇制廃止論」などもあり、野中広務や鈴木宗男的なイメージだった。識者は、なぜあんな左翼を、佐藤栄作首相は、防衛庁長官にしたんだと訝った。それ以上に、猪木正道の防衛大校長という人事には、関心をもつ国民の多くが驚愕した。猪木が左派社会党だったのを覚えていたからである。ただ、「中曽根ー猪木」の間に、末次一郎などKGBが接着剤のように介在した事実を、当時の日本で指摘したものは誰もいなかった。
しかも、それから八年が経った1978年、猪木が校長を辞めた頃には、世代が替わったからか、猪木がスターリン教徒の極左だったことも左派社会党員だったことも忘れられてしまった。日本人の忘れっぽさには、困ったものである。
なお、自衛官に制服での通勤を禁じたのは、中曽根防衛庁長官であり、彼はそのほか、あらん限りの自衛官イジメを行った。自衛隊OBに、一番嫌いな長官は誰?と聞くと、大多数が「中曽根!」と答える事実を歴史に留めて頂きたい。小渕外務大臣をして1997年、対人地雷廃絶条約に加盟させ、この結果、対露防衛用の陸上自衛隊の対人地雷をすべて破壊・廃棄させた黒幕は、共産党とつるんだ中曽根康弘であった。
4、中西輝政は、“猪木グループ”を退治するのか、しないのか――中西へのリトマス試験紙
産経新聞社を根城に増殖した、「猪木グループ」という巨大な“産経KGB支店”は、絶大な言論操作を1973年から三十五年間も行ってきた。一方、“ハッタリ売文業の達人”中西大先生は今や、外国からの工作員浸透・情報操作を阻止する、月光仮面かのごとくに、自己表現している。それが売文業者の大道“芸“なのか、それとも本当の愛国者としての国益擁護のやむにやまれぬ真情からなのか、まず?かつての江藤淳や福田恒存のごとく「猪木グループ」を非難し、次に?ロシアSVRのフロント工作機関である佐瀬昌盛の「安全保障問題研究会」の解体を主張し、?「日露専門家対話」と「サハリン・フォーラム」を閉店に追い込む努力を見せて欲しい。そうすれば、「中西は、本当に月光仮面だ」と、日本国中が納得するだろう。
さらに?刑法第85条を復活し、KGB(SVR)要員と通謀した、北方領土の返還を妨害する煽動言論や運動を加罰すると定める「領土保全法(仮称)」を制定すれば、木村・袴田・猪木・佐瀬の“悪のKGB四人組”を死刑を含めて加罰できる法制度が完備する。このような刑法条項の復活と「領土保全法」の新規立法を、中西大先生!提唱するのか否か。さあ、月光仮面ぶりを発揮してもらいたい。なお、「領土保全法」の具体的な条文と法理は、後述する。
とりわけ?軍機(防衛機密)保護法と外機(外交機密)保護法を制定し、敵性国家の情報工作オフィサーと接触するものは、防衛省・自衛隊・防衛大学校および外務省の職員等との接触を禁止することとすれば、 「KGB工作員」木村汎・袴田茂樹・佐瀬昌盛はこれらの国家機関から隔離され、日本の安全が確保される。中西大先生!このような二つの法律の立法を提案しますか、それともしませんか。
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