“強度の共産主義シンパ”西尾幹二を「保守」という冗談(ジョーク)──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(8)1/2
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妄想(嘘)歴史小説家・反米主義者・西尾幹二
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中川八洋掲示板より
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/04/21/182559
2014.04..21
“強度の共産主義シンパ”西尾幹二を「保守」という冗談(ジョーク)──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(Ⅷ)
白鳥敏夫、平野義太郎、大川周明を熱烈支持すれば(表1)、さほど学がなくとも誰でも“極左”と看做す。すなわち、西尾幹二が共産党員と同列の“過激な極左”なのは、常識においても明白。それなのに、マルクス・レーニン主義者でないという単純な事実から、そうでないと逆さに勘違いしてきた西尾ファンは、自らの無教養のひどさと論理的な相対化能力の欠如を深く羞じられたい。
表1;西尾幹二が熱烈支持する大東亜戦争期のソ連工作員/狂信的レーニン主義者
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特記事項
『GHQ焚書』
白鳥敏夫
終生、ソ連工作員。
コミュニスト
第八巻
平野義太郎
党籍ある日本共産党員、
「ソ連工作員→中共工作員」
第八巻
大川周明
アジア全域の無秩序化を図るべく
反英戦争・日米戦争を起こし、
ソ連をイスラム教圏・アジアと
連携させ、究極には世界を
社会主義化で統合。このために
日本は特攻の戦争を起こし
自らは亡国・廃滅する。
第二巻
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“極左”には、マルクス・レーニン主義者(コミュニスト)だけでなく、ニーチェ・ヒトラー主義者(プレ・ポストモダン)、フーコー・ドウルーズ主義者(ポスト・モダン)、ポスト・コロニアリズム(サイード主義者)など、多種多様な型が存在する。
清水幾太郎のようにコント・デューイ主義からマルクス・レーニン主義者になった特殊コースすらある。丸山真男も知識社会学・フランクフルト社会学主義から最高のコミュニスト知識人となった。ニーチェ・ヒトラー主義の西尾幹二を“極左”に分類しないならば、無知というより、日本共産党を“極左”としない他意に拠るのだろう。
話を戻す。表1の三人は、共通して天皇制廃止のイデオロギーの狂信者。白鳥敏夫(裏工作専門の外交官)や平野義太郎(知的・学的な擬装に専念した共産党学者)と異なり、行動派でもあったレーニン系マルキスト大川周明は、手の込んだ嘘・天皇主義を擬装する曲者。だが、究極には昭和天皇暗殺と天皇制度の廃止も目指した一九三二年五月十五日の「五・一五事件」の首謀イデオローグであることで、大川周明の心底が“反天皇の権化”であるのは異論を挟み得ない。
西尾幹二とは、心底では天皇制廃止のイデオロギーに凝り固まっており、だから直観で大川周明を同志だと心酔する。西尾幹二ファンに、天皇制度に怨念をもって廃止せんとする(日本国籍を持つ帰化した)在日朝鮮人が多いのも、強度の天皇制廃止である西尾の奥底の真意を正確に覗き込んでいるからである。
西尾幹二の正体が“天皇制廃止の極左”だと喝破できない(有名人になりたい一心で、芸能人ごっこに明け暮れる)竹田恒泰氏の軽佻さには、ただただ眉を顰めるほかない。これでは旧皇族の皇籍復帰という制度づくりは遠のくばかり。
ともあれ、共産党と同じ位置にいる西尾幹二を、「保守」とか「良心的な学者」だとか、逆さに誤解する“恥さらし日本人”は、“低級な非国民” でもあるから、法廷ですら「黒い烏」を「白い白鳥」だと言い張るに違いない。“極左”度の測定は、日本共産党を基準としてそこからの距離。共産党より左なら“スーパー極左”、やや右なら“左翼”という。つまり、西尾が“極左”なのは事実で、この事実は動かない。
さて、話を本論へと進めよう。西尾幹二は、大川周明『米英東亜侵略史』は、GHQに“焚書”され日本人は手にできなかったとの真赤な創り話を主張する。そして、自分が、七十歳になるまで、この本を読めなかったのは、GHQ(米国)の焚書のせいだ、と。
一九四二年から七十年以上連続して日本人すべてが読むことのできた『米英東亜侵略史』を、(学者の基準では)本をまったく読まない“学者もどき売文業者”西尾幹二だけが読まなかった。なのに西尾は、「米国のせいで読めなかった」と真赤な嘘を創作して、自分の無学・無教養と怠惰な生活の問題を米国に転嫁する。重度の精神分裂病からの西尾の虚言癖だし、その分裂妄想からの“歴史の偽造狂”の症状でもある。その上、狡猾な犯罪者性に歪んだ西尾の異常な人格から生まれる怪奇言動である。
ちなみに、『米英東亜侵略史』はすベての主要大学に一九四二年からずっと蔵書されている。戦後まもなく、『大川周明全集』が出版され、『米英東亜侵略史』が収録されている第二巻は一九六二年の刊行だった(西尾二十七歳)。
ところが西尾は、「二十七歳(一九六二年)から七十歳(二〇〇五年)までの四十三年間オレ様が読まなかったのは、米国が<焚書した>ため。一九六二年に『全集』で再刊された第二巻もずっと東大図書館にあったが、オレ様が読まなかったから存在しなかったのだ」と、狂気丸出しの嘘を喚き散らす。どうも西尾の狂った頭では、「GHQの対日占領は二〇〇五年まで続いた」らしい。
“<指定図書>となった本はおおむね数冊づつ収されたようだが、焚書など全くなされなかった”のが、正しい歴史事実。だが西尾は、この事実を改竄し転倒し、「焚書されて、一冊も日本に残らなかった」と、分裂病妄想でデッチアゲた嘘歴史に酔い痴れる。
これほど“重度の精神異常者”西尾幹二を熱烈支持する、“日本人もどき”が今もそれなりに少なくない。日本が滅び行くのは、もう不可逆だろう。なぜなら、妄想と虚言に狂って正常が一点もない西尾幹二の言論活動は、ヒットラーと酷似して、日本の国益を逆行的に毀損するのが狙いである。日本国民であることを忘却したのか、西尾を拒絶しないことは、“快楽殺人”に愉悦するごとく、“日本国破壊”を“快楽”せんとする犯意が強度すぎる。
第一節 暴力革命が至福だった“殺人狂テロリスト”大川周明
大川周明は“脳梅毒の狂人”だったと、医学的診断を明かしたのは、彼を診察した精神科医の内村祐之(東京大学名誉教授、精神医学)。大川の死後十年目に、朝日新聞が報道した内村祐之の証言は、以下の通り。大川の幻覚・幻聴がかなりのレベルだったようだ。
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「(東京裁判の公判中の)大川の病気は決して詐病ではなく、正真正銘の精神病であった。これについては検事側の鑑定人であるアメリカの医師と、日本側の私との意見が全く一致している。その病気も…進行麻痺という梅毒性の脳病」
「(精神病院に入院中の大川は、コーランの全訳を完成したが)その頃の大川は、時おり、特別の意識状態となって、マホメットと自由に交霊ができたので、かつてないほどコーランがよく理解できたとのことである」(注1、カッコ内中川)。
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“脳梅毒の狂人”と言えば、ニーチェ。つまり、大川周明とニーチェは同病。脳梅毒と精神分裂症は、症状がほとんど同じ。西尾幹二が、青年時代にニーチェに魅惑され、七十歳のとき大川周明に憑かれたのは、西尾の精神分裂病の共鳴だろう。
西尾は『GHQ焚書図書開封』第二巻で、大川周明の『米英東亜侵略史』の読後感想文を小学生レベルで綴っている。歴史知見ゼロの“歴史音痴”西尾幹二らしく、無批判に大川の書いた通りをただ転記している。そればかりか西尾幹二は、“マホメット狂徒”大川周明の読むに耐えない『英米東亜侵略史』のデタラメ内容を、歴史学的に正しい最高のレベルとして論を展開している(注2、二〇〇八年刊)。こんなナラズモノ論評しかできないのは、「電気通信大学教授」の職にあったが、(入学したばかりの一年生の教養課程に限定された六流教官として)“真正のバカ教授”だったからである。
では、大川周明の真像を正確に把握するにはどうすべきだったか。まず最初に、テロリストの大川周明の行動を精査しなければならない。大川周明は、夏目漱石などの文学者や津田左右吉などの通常の学者ではない。
行動に生きた人物のその行動調査をいっさい排斥し、著作のみに限定するとは、西尾幹二に“偽りの大川周明の虚像”を捏造せんとする悪意が強すぎる。ヒトラーの研究をするに、ヒトラーの著作や演説だけを対象にして、ヒトラーの行動をいっさい無視する、そんな逆立ち学者は世界に一人もいない。だが、西尾幹二は、世界でただ一人、この逆立ちに生きる売文業者。生まれながらに良心をいっさい欠く“狂気の人”西尾の歴史評論の眼目は、“歴史の捏造”で、歴史の真実を日本国民の目からいかに葬るかだ。
学術的に言い直せば、歴史上の人物の考察は、「行動(actions)の分析が絶対(主)で、言葉(活字、words)の分析はこの補完(従)」である。大川周明をケースとすれば、「五・一五事件のテロリスト」としての大川周明の分析なくして、西尾のごとく大川の著作一冊だけに限定した“活字つまみ食い論評”など、大川周明論とは言わない。
“社会主義革命テロリスト”大川周明について、「三月事件/十月事件/血盟団事件/五・一五事件」への関与を詳査した上でなければ、彼の著作たった一冊に言及したところで何が判るというのだろう。しかし、西尾幹二は、早熟な大川周明が旧制中学時代に早々と、幸徳秋水の『社会主義真髄』と『週間平民新聞』を座右の書とし“幸徳秋水系のアナーキスト”として革命人生を開始したことも知らない。大川周明の思想解剖もいっさいせず、『英米東亜侵略史』一冊をもって大川の主義思想のすべてだと強弁する、“学者以下の無頼漢”西尾幹二の“大道売文”の毒性と有害性は、看過してよいレベルにない。
昭和の暴力革命すべてに参加した大川周明──「二・二六事件」への不関与は、獄中にいた偶然
一九三二年の「五・一五事件」で、犬養毅首相を殺害した拳銃は、大川周明が赤いテロリスト将校に渡したもの。この殺人で、大川周明の共同正犯は明白。決行一ヶ月前の四月三日、大川は、古賀清志・海軍中尉に現金千五百円と拳銃五挺・実弾一二五発を渡した。現金はさらに四千五百円を追加し古賀に渡した(注3)。
この拳銃が、犬養毅を射殺した、海軍中尉・三上卓の一発と黒岩勇(予備役海軍少尉)の一発となったようだ。首謀者の古賀と三上/黒岩/大川周明の四名は、現役首相の殺害である以上、死刑が相当だが、それぞれ禁固十五年/禁固十五年/禁固十三年/禁固五年の余りに軽いものであった。
大川周明は、「五・一五事件」では、国会を包囲する一万人の大衆動員を担当することになっていた。一九六〇年の日米同盟廃棄の暴動における、天性のアジテーターで知識人の清水幾太郎(共産党員)と同じ役割である。
「五・一五事件」は、前大蔵大臣・井上準之助と三井財閥の團琢磨を射殺した血盟団事件(一九三二年二月&三月)の延長上のもので、両者のテロリストには、古賀や海軍中尉・中村義雄などほとんど重なり合っている。
これより一年前の一九三一年には、後の二・二六事件(一九三六年)の予行演習といえる、帝国陸軍のクーデタ事件が実行直前にまでなった。「三月事件」と「十月事件」である。テロリズムを兼ねた陸軍クーデタ計画の「三月事件」「十月事件」は、「五・一五事件」のような若い海軍の尉官や士官候補生クラスによるものではなかった。「三月事件」で言えば、陸軍の少佐・中佐以上で、将軍すら多々参加した。陸軍大将の宇垣陸軍大臣を頂点とする陸軍中枢が主力だった。
「十月事件」は、満洲を帝国陸軍(関東軍)の支配下(一党独裁型政治)におく満洲事変の勃発(一九三一年九月十八日、柳条湖事件)に便乗し、むしろこれを模倣して、日本本土も帝国陸軍の「一党独裁」体制下におく全体主義国家づくりを目指したものだった。「十月事件」の五年後に実行された「二・二六事件」は、“東京版満洲事変”というべき“満洲事変のコピー”であった。
「十月事件」の首謀者は、「桜会」の橋本欣五郎・陸軍中佐。陸軍を社会主義独裁党として、日本を国家社会主義体制に革命する(=「昭和維新」の本当の意味)のを狙ったクーデター。「十月事件」が成功したときの組閣構想は、総理は荒木貞夫・陸軍中将、大蔵大臣は大川周明、内務大臣には橋本欣五郎、外務大臣は建川美次・陸軍少将、警視総監は長勇・陸軍少佐、海軍大臣は小林省三郎・陸軍少将、・・・(注3)。
この陸軍クーデターには、大本教教祖・出口王仁三郎(信者四十万人、注4)も加わっていた。これら一連の武力革命の系譜は、次の通り。
三月事件―→十月事件――――――――――→二・二六事件
→血盟団事件→五・一五事件
*太字は、大川周明が関わった暴力社会主義革命
なお、「満洲事変」とは、その国際政治の側面にいったん目を瞑れば、皇帝溥儀を傀儡として、陸軍(「関東軍」)が行政のすべてを握る独裁党になる政治体制の創建であった。つまり、三権分立を否定し、独立の国会も裁判所もない、行政が立法と司法のすべてを代行する“無憲法下の一党独裁体制”を満洲の地に創ったのである。
満洲における日本陸軍は、実態では「社会主義独裁党」だった。統制経済を執行する経済官僚機構も兼務して満州国の経済発展を担う権限まで、この在満の日本陸軍は自分に附与したのである。
幸徳秋水への信仰から始まった、“極左革命家”大川周明の思想本籍
旧制中学時代から『社会主義神髄』を愛読し『週間平民新聞』の購読者であった大川周明は、幸徳秋水直系のアナーキズム社会主義者として、その極左革命家の人生を開始した。明治天皇暗殺を計画した“大逆事件の首謀者”幸徳秋水の思想が主として「ルソー/マルクス/クロポトキン」で形成されたのに似て、十代の若き大川周明の思想も「幸徳秋水/ルソー/マルクス/レーニン」で形成された。大川は、こう述懐する。
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「社会制度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いでわが師とした」(注5)。
「カール・マルクスによりて唱導せられたる一大真理、ダーウィンが自然界に向ひてなせる発見を、人類社会に向つてなせりと称せらるる所のものなり。…悪しき実を結ぶ巨木を倒すことをせずや。革命の斧を揮ふてわれらとともに一打をその根に加ふることをせずや」(注6)。
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ルソー教徒でもあった大川周明は、全体主義体制の独裁者はどうあるべきかを人類史上初めて論じた、“近代全体主義の祖”ルソーの『エミール』を、アカギ書房から翻訳出版した。一九一四年。
日本の現代史では、「左翼」と言えばコミンテルン系の共産党や河上肇らの共産党員を指し、「三月事件/十月事件/血盟団事件/五・一五事件/二・二六事件」のイデオローグや実行者の方は「右翼」とか「ファッシスト」あるいは「国家主義者」として、まったく別に分類する。後者をムソリーニやヒトラーを指す用語である「ファッシスト」と分類するのは間違いとはいえないが、「右翼」「国家主義」とするのは、無知にすぎるし、明らに作為の虚偽語である。
ヒトラー等の「ファッシズム」とは、レーニンの母胎から生まれた畸形児の左翼思想で、マルクス・レーニン主義(=共産主義)の亜種。当然、「ファッシズム」は、極左思想の中の極左思想。スターリンの共産主義の方を“超ファッシズム”と改名すれば、「ファッシズム」が正しく理解され客観的な用語となる。
また、スターリンのソ連であれ、金日成の北朝鮮であれ、共産主義体制は皆、「国家主義」である。大川周明や北一輝らを「民族主義者(ナショナリスト)」とするなら少しはましだが、「国家主義者」と分類するなら、同じ「国家主義」の日本共産党との差異がなくなる。
共産党との差異や相違を明らかにするために「国家主義」を造語したのに、逆に自家撞着し言葉のナンセンス性をひどくしている。「国家主義」は、全体主義というニュアンスが強い用語だから、この原義どおりに用いれば、スターリンと大川周明の間には差異が存在しない。
要するに、スターリンの体制であれ、ヒトラーの体制であれ、大川周明や北一輝らの五・一五事件/二・二六事件の赤い将校団の革命であれ、それらは過激な暴力社会主義革命の体制を目ざしたことで、基本性格は根本で同一。いずれも、“極左”。反・社会主義のイデオロギーを自由主義とか保守主義というが、これを「右」というなら、多少は間違いとはいえない。
大川周明らの、“極左”暴力社会主義革命のドグマにつき、あえて共産党との相違をズーム・アップしたいならば、ナショナリズム(民族主義)とりわけ「天皇」を持ち出すことに着目すべきだろう。「天皇」とか「民族」とかを糖衣/白ペンキとして塗りたくる擬装をするかしないか、これが共産党との顕著な相違ではないか。
大川周明らの社会主義と河上肇らの(日本共産党系)社会主義との間には、虚構の天皇崇拝で偽装するか、正直・露骨に天皇排撃をするかの違いが、確かに存在する。しかし、前者のメッキをはがせば、後者と同一の金属がむき出しに出てきて同一となる。
一九二五年以降は治安維持法が適用され検挙されるのを回避すべく、平野義太郎のように共産主義者のほとんどは、「天皇陛下万歳!」で自分たちの天皇制度廃止の革命真意を隠すのが一般的となった。“天皇制度廃絶の権化”なのに、「天皇」や「国体」でその逆に擬装する、日本革命家に独特のこの行動は、大川周明らアナーキストの間では昔からやっていた。が一九三〇年以降、共産党も遅まきながら真似するようになった。
敗戦が近づく一九四五年一月に昭和天皇に上奏された「近衛上奏文」は、吉田茂が代筆したものだが、「右翼=左翼/共産主義者」と見事な正しい定義がなされている。さすが、保守主義の吉田茂である。
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「軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く一部官僚もしくは民間有志(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり。いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり…」(注7)。
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五・一五事件後の、一九三三年版の内務省警保局(現在の警察庁)の分析は、一九四五年の吉田茂ほど明確ではない。個々の団体の調査は精緻だし、コミンテルン系共産主義との相違と類似と重畳などをさまざまに考察したのも立派だが、堂々巡りに終始してしまった感がある(注8)。
共産主義勢力に対する対置が自由主義勢力とみなして、民族色の社会主義革命勢力とコミンテルン系社会主義革命勢力とが同根であることにもっと着目すべきであったろう。例えば、「五・一五事件」の檄文を重視していれば、「農民よ 労働者よ」とあるように、「五・一五事件」は、レーニンやトロツキーの共産革命そのもので変わる所はなかった。日本共産党との差異などいっさい無かった。
内務省(警察)は、赤い革新将校とそのイデオローグたちが根本においては過激な共産主義者だった事実において、共産党と同一に括る知力をもつべきであった。マルクス・レーニン主義の研究が少し貧弱だし、これらと対極的な英米系保守主義の知見がゼロだったことが、相対化の比較研究に失敗した主原因であろうか。
また、大川周明や北一輝らの行動(actions)の分析に当っては、出版物など書いた活字(words、言葉)などは、擬装用白ペンキだし、警察その他を眼晦ます妨害電波のようなもの。内務省(警察)の調査は、彼らの行動により主力と精力を注ぐべきではなかったか。「五・一五事件」の檄文は、以下の通り。
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「国民よ!国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!奸賊、特権階級を抹殺せよ!」
「農民よ、労働者よ、全国民よ!」
「民衆よ!この(「共産国・日本」の)建設を念願しつつまづ破壊だ!すべての現存する醜悪な制度をぶち壊せ!」(注9、カッコ内中川)。
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レーニン崇拝で同志となった大川周明と“日本のソ連工作員第一号”後藤新平
話を戻す。大川周明の異常なレーニン崇拝は、“日本一のレーニン狂徒”後藤新平との結びつきにも表れている。実際にも大川は、レーニン崇拝を隠すことはなかった。日本だけでなく世界中がソ連を国家承認せず、打倒して、旧ロシア帝国を再興しようとしている一九二二年の時点で、大川はこう述べている。
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「僕は(一九一七年の)当初からレーニン政府承認論者であり、日露通商主張者である」(注10、カッコ内中川)。
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一九三〇年出版の『日本的言行』で大川は、間違いだらけなどぶっ飛んでしまうほど異様極めたレーニン称讃をしている。「(レーニン主義は)ヨーロッパ精神の権化」とか「(国民を殺戮の恐怖下で支配する共産党独裁体制は)機械的・自働的に人類に福祉を生み出す組織」とは、いやはや恐れ入る。これほどまでの極端なレーニン信仰は、日本共産党員と何ら変わらない。いや、共産党員以上。
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「レーニンは、ヨーロッパ精神の権化である点において、大いに学ぶべきところがある。ギリシャ思想とキリスト教とに養われ、さらに近世科学によつて鍛えられたるヨーロッパ精神は…」
「理性と科学との力を恃み、経済組織の革命によつて共同生活の福祉を実現とする社会主義の唱導となり、…レーニンは、その魂の全力を挙げて、外面的 制度の確立、機械的・自働的なる人類の福祉を生み出すべき組織の実現に傾倒した」(注11)。
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だから大川周明は、マルクス・レーニン主義に従い、「ブルジョアジーを打倒して、プロレタリア支配の国に革命せよ!」と、公然とプロレタリア革命を唱導した。一九二七年に発表した論考「維新日本の建設」は、まさにこの一つ。
大川流“騙しの詐語”「維新日本」が「共産主義社会に革命された日本」という意味だったことは、この論考「維新日本の建設」が明らかにしている。つまり、大川が参画した軍部クーデター「三月事件」「十月事件」「五・一五事件」とは、一九一七年のレーニンのロシア革命を日本に再現すべく、武力をもつ軍を抱き込んで日本の共産化社会を指向する暴力革命だった。
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「来るべき(明治維新に次ぐ共産革命の)第二維新においては、倒さるべきものは黄金を中心勢力とする閥(ブルジョアジー階級)であり、興さるべき者は貧苦に悩む多数の国民(プロレタリア階級)である。すなわち第一維新の標語が<尊王倒幕>なりしに対し、第二維新の標語は正しく<興民討閥(プロレタリア支配の共産社会づくりのため、日本からブルジョアジーを打倒せよ!)>でなければならぬ」(注12.カッコ内中川)。
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一九一七年のレーニンのロシア革命に共鳴・共振する、コミュニストでソ連工作員の後藤新平は、一九二〇年から東京市長であった。ロシア革命で“世界の孤児”となったソ連を助けるため、後藤は、国家として日本政府が承認するよう日本政府への圧力をかけるべく、“ソ連の対アジア外交の天才”ヨッフェの来日を画策。後藤の招聘という形でついにヨッフェは来日した(一九二三年一月)。一九二五年の日ソ基本条約は、後藤の暗躍がなければ締結されていない。米国のソ連承認は一九三三年で、これが正しい対ソ外交。
日本の共産化を密かに祈願する後藤新平は、二度の脳溢血で倒れながら、スターリン会いたさに、一九二七年十二月~翌二八年二月、厳寒のモスクワを訪れた。この無理がたたって一年後に死去するが、後藤はスターリンに会えるなら死んでも良いと公言しており前代未聞の狂信的な親ソだった。それは、「反・英米」の裏返しであった。英米を排して日露支の三国が主導する東アジアを夢見、結果としては日本がロシアの属国になることを、後藤新平は理想だと考えていた。後藤は日本の対ソ売国奴第一号で、第二号が近衛文麿である。
後藤新平はこのような極端なレーニン崇拝者で無批判のソ連万歳主義者だったため、同じ考えの大川周明と意気投合した。一九二〇年四月、後藤新平が拓殖大学学長として大川周明を教授に採用したのは、この理由である。
アジアはソ連(共産ロシア)と同盟し、(英米など)ヨーロッパの市場経済諸国をアジアから追放すべしと煽動する『復興亜細亜の諸問題』を大川が出版したのは、拓大教授になって二年後の一九二二年。対日工作のためのヨッフェ来日の一年前。大川はこう書いている。
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「ボルシェヴィキ(ソ連)とアジアとが、全然相一致することは言うまでもない。共通の敵たる西欧列強と戦うことにおいて、両者(アジアとソ連)が握手することに何の不可思議もない」(注13)。
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“天皇制度廃止の信条隠しの達人”大川周明──平泉澄の「皇国史観」は、大川周明のトリックを模倣した?
大川周明が心底では天皇制廃止が信条であるのに、戦後に発表された大川周明論の多くの著作はどれもこれも、この重要事実を等閑視するか歪曲する。大川周明は、自らの天皇制廃止の信条を秘匿すべく、さも“天皇主義”であるかの偽装として、『日本および日本人の道』『日本二千六百年史』などの著作を出版した。だが、この両書には天皇制廃止の“麻薬”が仕込まれており、戦後の共産党の「天皇制廃止」出版物の先駆とも言える。
さも天皇・皇室尊崇をしているかに世間を誤解させる大川的演技は、大逆事件での幸徳秋水の死刑と治安維持法が存在することにおいて、戦前日本の知識人において、ごく普遍的な言動だった。平泉澄の「皇国史観」は、この種の演技の中では、最も高水準な転倒擬装の妙技だったといえよう(注14)。日本国の廃墟に究極の美を観想すべく大東亜戦争讃美/推進論を展開したプレ・ポストモダン文学者・保田與重郎の天皇讃歌も、ヘルダーリン分裂症型の転倒表現で、広義には大川周明や平泉澄と同じ「演技」に分類してよい。
尚、これは戦後なので、大川/平泉/保田とは一緒に括れないが、共産党を離党してアナーキストに転向した『大東亜戦争肯定論』(一九六五年)の林房雄も、天皇制廃止を信条とし、同じ手口を使っている。林房雄の『神武天皇実在論』(一九七一年、光文社)は、自分の信条を隠して虚像をデッチアゲるための擬装用出版物だったろう。はるか昔の歴史の話で煙に巻き自分の逆イメージを創るのは、大川周明でなくとも、世界共通の革命家の常套手段である。蛇足だが、『大東亜戦争肯定論』は、(朝鮮戦争に勝利できず落ち込む)金日成・主席を慰撫する献上本として、朝鮮総連が(高額の執筆料を渡して)林房雄に書かせたのが真相のようだ。
大川周明が、“第二の幸徳秋水”で天皇制廃止の教条的マルクス・レーニン主義者である正体(自分の真像)がバレそうになった時が二度ある。『日本および日本人の道』(一九二五年)と『日本二千六百年史』(一九三九年)の出版によってである。
すなわち、大川周明とは“反・天皇制度(天皇制廃止)”のイデオロギーを秘めていただけではない。北朝鮮人で社会主義者の福島瑞穂や土井たか子と同種の、激したマルクス・レーニン主義からの“反・日本”主義者でもあった。 日本列島は“日本民族の国土”ではなかったなど、大川の“日本(自国)憎悪感情”は半端でなかった。重版では修正したが、『日本二千六百年史』の初版では、次のような主張がなされていた。
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「日本は、おそらくアイヌ民族の国土であった」(注14)。
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また、大川は、自らのレーニン狂から“ロシアの犬”を満川亀太郎ともども自認し、日本の対ロ戦争は防衛を含めていかなるものも絶対反対した。そればかりか、レーニンが第一次世界大戦中にロシア人民に革命を煽動した同じ論調で、日露戦争で勝利に喜ぶ日本人を「プロレタリアート」に洗脳して“日露戦争憎悪感情”を植えつけんとした。
他の著作とも総合するが、『日本二千六百年史』は、大川周明は白鳥敏夫と同じく、教条的な「親ロ」で日ソ同盟論者だったのを暴いている。
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「(日露戦争で徴兵され戦死し)妻子を飢え泣かせた者、出征のために家産を倒せる者、老親を後に残して屍を異境に曝せる者は、実に幾十万を算した。戦争の悲惨は平民のみよくこれを知る。けれども彼らは与えられるところはなかった」
「平民は(日露)戦争に疲れ果てたる上に悪税を存続せられ、富豪は特別なる眷顧を受ける」(注14、カッコ内中川)。
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『日本二千六百年史』という表題から、当時の読者の多くも、大川周明を民族主義もしくは日本主義だと誤解しただろう。それが狡猾な民族系コミュニスト大川の狙いでもあった。しかし、『日本二千六百年史』の内容は、“日本憎悪”が基調の上に、明治天皇をレーニンやスターリンと同じ「専制者だ」と誹謗したり、奈良時代や平安時代の朝廷を「族長相談処(所)」だと罵倒したり、大川の“反・天皇”感情は共産党員そのものほどに激しく、まさしく“幸徳秋水のクローン”であった。
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「ロシア革命はレーニンおよびスターリンの専制によつて成りつつある。しかして明治維新は、実にその専制者を明治天皇において得た」
「(朝廷とは、議長が天皇の、天皇族の)族長の相談処たりしもの」(注14)。
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天皇制度に対する大川周明の憎悪感情は、一九二五年出版の『日本および日本人の道』においては、もっと凄い。そこでは、天皇を日本国民の視界と心理から消す、手の混んだマジック・ショー的な詭弁を展開した。日本をして天皇不在と国家不在の国家廃滅に誘導する、それが大川周明の核心を占める真なる思想だった。
『日本および日本人の道』は、一言で言えば、「忠君」という天皇への尊崇や忠誠を否定するドクマの本である。なぜなら、大川は「<忠君>の本質は、天皇において生命の本原を認める一個の宗教たる点に存します」と(注15)、天皇は透明人間であり天皇を仰ぎ見るのは透明で不実在の天皇の向こうにある<生命の本原>を観想して信仰することだと、奇怪なレトリックを展開する。
このレトリックの種を明かせば、天皇を門柱に幻影で映し出し信者を引き寄せ、信者が門柱に来たら天皇の像は虚空に消え、信者はいつしか奥にある暗闇の寺院(アナーキズム麻薬を投与する魔窟)に引き摺り込まれている、そんな宗教勧誘の手口である。大川において、天皇は、呼び込む時の蜃気楼に使われているだけで、実在しない。
大川は、こうも言う、「(忠とは)天皇を通じて神に随順することに外ならない」、と(注15)。「神のみあって、天皇なし」の大川流詭弁は、天皇を手段的に活用する天皇不在のカルト新興宗教の教宣(アジプロ)だろう。そして脳梅毒の幻覚なのか、自らをキリストやマホメットに擬して、日本国を超越する絶対神だとまで言う。
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「私は家国を超越する天上天下唯我独尊の大川でもある。私の魂の最も深い処において、私は純乎として純なる神を拝することができます」(注15)。
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(続く)
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