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私の左翼時代ー洗脳されて革命運動に参加(1/2)

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私の左翼時代ー洗脳されて革命運動に参加(1/2)







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大森勝久評論集

http://1st.geocities.jp/anpo1945/sennousarete.html




私の左翼時代ー洗脳されて革命運動に参加



第一節 私の学生運動

 価値否定した左翼時代のことを思い起こして文章にするのは嫌なものである。しかし私という人間を知っていただくには必要なことだし、誤った左翼革命運動(非合法的なものであれデモであれ言論活動であれ)を実践してしまった以上、伏せて知らんふりするのは許されることではない。また大学に入って左翼思想に洗脳されて誤った人生を歩むことになっている者は実に多いが、それは日本の政治と教育の欠陥のためでもある。これを自覚し克服していくことは喫緊の課題である。そういうことから、私の左翼活動の履歴を簡単に書いていくことにしたい。当時の意識を書くのでその点は誤解なきようお願いしたい。

 私は主に両親の影響から、大学入学後も学生の左翼運動を嫌い抵抗していたのであるが、一年の終わり頃には左翼革命を正しいと考えるように洗脳されてしまった。洗脳のプロセスについては節を改めて述べることにする。最初は、議会を通じた平和的な日本革命を支持するようになった。しかし数ヵ月後位には、平和革命が困難であれば、革命的な暴力に依拠した革命であっても良いと考えるようになり、程なくして「積極的な日本暴力革命論」を支持するようになった。しかしまだ口先だけのものであった。反日共系ノンセクトラジカルの革命論として、流行していた理論に賛同したという程度であり、自分の実践として今現在から暴力革命の一翼を担っていくのだと考えたのでは全くなかった。
 


 一九六九年は私が二年になった年だが、学園紛争が全国化した年でもあり、岐阜大学でも多くの学生が参加して大衆デモが行われた。ベトナム侵略戦争反対が叫ばれた。クラスの七、八割位は一度は日共系か反日共系のデモに出たことがあったと思う。女子はほぼ日共系のデモであった。左翼的でないと人間的でないと見られる空気になっていった。だが一九七〇年六月、安保闘争が終わった頃から一気に運動は下火になり、デモ参加者は激減した。「活動家」と見られていた者だけがデモに参加する状況になっていった。数学科では私の他には二、三人になっていただろう。 


 岐阜で行われた反日共系のデモは、私はノンセクトラジカルということで黒ヘルメットを被って参加していたが、機動隊と市街戦を展開することは一度もなかった。だから誰一人として角材を持っている者はなかったし、投石することもなかった。もちろん催涙弾が撃たれることはなかった。言葉こそ勇ましいが、日共系のデモと大差ないものであった。二年三年の私にとっては、一部でジグザグデモをし、一部で座り込みをする位で、両側を機動隊に挟まれて行進するデモに参加することがほとんど唯一の対外的な活動であった。それ以外の日々は、左翼の本を読むにしろ友達と政治論議をするにしろ、非活動の日常生活を送っていたわけである。だから暴力革命であれ、平和革命であれ、革命を口にするのは本来であれば恥ずかしくて出来ないような生活を送っていたのであった。しかし周りの「活動家」の水準も同じようなものであったから、私は「俺は先進的で革命的だ」と満足感に浸ってさえいたのであった。「自己否定」の言葉も苦悩することもなく使っていたのであった。 

 四年になると早々に「教育実習」が始まった。数学科でもデモに出る者はほとんど私一人になってしまったし、教育学部全体でも反日共系デモに出る者は数名程度になっていた。岐阜でのデモ自体が大きな記念日に行われるだけになっていた。私はそういう周りの状況に反発した。それはより厳しく自分自身の在り方を問うことになっていったからだ。私は一人で名古屋や東京のデモに参加するために出掛けていくようになった。東京では、距離をとって機動隊と対峙して投石し催涙弾を雨あられと撃ち込まれ、結局機動隊に突撃されて必死に逃げ回るという敗北の市街戦を何度か体験した。私は「ほとんど武装もせずに正面から敵とぶつかっている我々の現在の革命闘争などは児戯に等しい。非公然の都市武装ゲリラ部隊の創出が不可欠だ」と実感していったのであった。 

 私は四年の後期頃には日本革命路線を非難して、日本国家とその国境またその他の国家と国境を廃絶して、単一の世界ソビエト社会主義共和国の建設を目指す世界革命こそが正しいと考えるようになっていた。「日本革命というのは富を日本人だけで平等に分配しようとする、先進国の人民の特権的な運動だ。世界規模での平等な分配、平等な社会の建設を目指す革命こそが革命の名に値する」と考えるようになった。帝国主義国における闘争形態は都市ゲリラ戦争であり、それは武装闘争と大衆的な実力闘争と大衆的な平和的闘争の有機的な結合であるだろうと考えていた。

 しかしこのように頭では考えていたものの、私には日本の体制また日本そのものに対する体の中から自然に湧き起こってくる強い怒りの感情が欠けていた。「こんな状況では到底革命闘争を実践していくことはできない。自分を革命主体へと鍛え上げていくにはどうしたらいいのだろう」と何度となく自問したものである。そのような四年の終わり頃の一九七二年一月だったが、私は書店で太田竜の『辺境最深部に向かって退去せよ!』という本を見つけ大きな衝撃を受けたのだった。
 


 彼の世界革命論は従来の世界革命論を、第三世界の人民と帝国本国内の市民社会から排除された被抑圧人民を、「中心的な革命主体」に措定することによって、根本から再構築した新しい革命論であった。後者は日本でいえば、アイヌ人や在日朝鮮人や沖縄人や山谷や釜ヶ崎などの底辺労働者である。窮民革命論と言われたりもした。太田は、私のような日帝市民社会出身者で、世界革命の一環としての日本を滅ぼしていく(廃絶していく)革命を志す者が、まずしなくてはならないことは、特権を捨て去り市民社会から脱出して底辺社会で同胞に包囲されて暮らすことによって、自らを革命主体へと変革していく作業であるとも主張していた。上述したように悩んでいた私であったから、太田の主張は心に迫ってくるものがあった。 

 三月の卒業式とその直後の教員採用の辞令交付(私は小中高の教員免状を取得し、瑞浪市の中学校の数学の教員に採用されることが決まっていた)が迫ってくる中で、私は何度も読み考え自己と対決して、教職を捨て市民社会に別れを告げて、底辺社会へ入っていくことを決めていった。私をここまで育ててくれた両親を裏切り悲しませてしまうことが一番辛かったが、もし妥協すれば保身にもなり人間として駄目になってしまうと考えて決断していった。私は将来非公然都市ゲリラとして闘っていくときに、大学中退だと目立ち怪しまれることになると考えて卒業することにしたが、少し前に行われた卒業アルバムのための数学科の写真撮影にも卒業式にも出なかった。だから卒業アルバムの私の写真は入学時の写真で一人離れて写っている。数学科のみんなや先生方には大変嫌な思いをさせてしまったことを、今では本当に申し訳なく思う。 







第二節 反日革命と反日亡国闘争を目指す

 私の再出発は教職の辞退と両親からの“勘当”で始まった。卒業後数日位で教員の辞令交付となったが、私は「一身上の都合」を理由に辞退して岐阜のアパートへ戻った。両親がすぐ飛んで来て、「教師を続けながら信じるところを生徒に教えたり、学校外でデモでもなんでもやればいいじゃないか。なぜ辞めてしまったのか!」と非難した。私は両親の気持ちが痛いほどに分かるから、ただただ「このようにするしかありませんでした。許して下さい」と泣いてお詫びの言葉を繰り返すしかなかった。二人も泣いていた。父は「お前を勘当する!」とまで言った。母は取りなしたが父は、「今日から親でも子供でもない!」と言って母を促して帰っていった(五ヵ月後に私は勘当を許された。)

 ショックではあったが、私はその二、三日後には岐阜で土方仕事を見つけて働き始めていた。三月中であった。六、七人の小さな工務店で、主に市発注の土木工事をしていた。朝鮮人も一人いた。その人は足も悪かった。私は工務店で働きだすのと同時に、「これからは懐かしい市民社会と決別して底辺社会で生き、内外の同胞のことを考えて、革命を目指していくのだ。私の本当の人生が始まるのだ」と考えて、アルバム等を全て処分することにした。写真館で並んで撮ったCさんの写真も、高三の運動会の時の一人で座ってるBさんの写真も、二年の修学旅行のAさん一人の写真も、いずれも知人が撮ったものを貰ったのだが、「どうか幸せになって下さい。さようなら」と語りかけて一緒に処分した。もし逮捕された時にご迷惑をかけてはならないと思ったからでもあった。
 


 土方になる前は、大学四年の時は別になるが、岐阜の街を歩いても公園で憩んでも疎外感など微塵も感じなかった。私は岐阜の一部であり、岐阜は私を優しく包んでくれていた。しかし土方になってみると状況は文字通り一変した。私は服装も大事な要素だと考えて、地下足袋姿でアパートから自転車で工務店へ通ったが、通行人が通勤時や仕事中の私や私たちを見る目は、あるときは冷ややかであり、あるときは露骨に差別的であり、あるときは怯えの色を含んでおり、またあるときはそこには私や私たちが存在していないかのようであった。現場が私がよく歩いた柳ケ瀬の中心部の歩道のタイル交換や、恋人や友人とよく行った柳ケ瀬のすぐ横にある公園の改修であったりもしたが、そんな時はより一層岐阜の街が、これまでと全く違った姿で私の前に現れてきたのであった。私に対立していた。私は頭では理解していた太田竜が主張する「日帝市民社会と底辺社会の対立性」を、直接体験することで実感していったのであった。私は思想によって武装することで、逆に日帝市民社会を批判し得るからよいが、思想を持たない底辺人民の苦悩を思った。 

 岐阜における同年六月一五日のデモで、私は美濃加茂市でやはり土方をしながら活動しているというD氏(仮名)と知り合った。D氏は自分も太田竜の思想に共鳴していると言い、こちらには仲間もいるから引越ししてこないかと誘ったので、ふたつ返事で六月末に引越した。そこでは私は朝鮮人が親方の小さな組でD氏と一緒に土方仕事をした。美濃加茂においては、私はD氏から強い影響を受ける形で自分の中の「ブルジョア道徳性」を解体していく実践も熱心に行っていった。凄い長髪にしたし、街の中で叫び声を上げたりした(思い出したくもない恥ずかしいことを革命的な実践だと考えてやっていたのであった。

 少し戻るが、私は岐阜で土方を始めてから半月位経った時に、一度東京の寄せ場・山谷へ行って五、六日ドヤに泊まって日雇い仕事に出たことがあった。その後飯場仕事も体験したくて一〇日契約で行ったが、親方と古株がヤクザ上がりの凶悪な面相と雰囲気を持つ人物であり、人使いも荒くて、山谷から行った者も一、二人と逃走するような飯場だった。私は頑張ってみたが未体験のことゆえ精神が参ってしまい、拒否反応を起こしてしまって七日目の夜に逃げ出したのだった。もちろんそれまでの賃金ももらわないままである。私は「まだ底辺社会に生きる者としてのいろんな側面での主体形成が出来ていない。もう暫く岐阜で働いて自分を鍛えよう」と考えて岐阜へ戻ったのだった。
 


 美濃加茂で三ヶ月間働いた九月末に、私はもっと自分を変革したいと願って、一人で名古屋にある寄せ場・笹島へ向かった。笹島のドヤは上下二段ベッド(一畳のスペースで山谷と同じ)で一〇人程の部屋だった。そこで二ヶ月余り働いた。一度一〇日契約の飯場へも行った。ドヤは電気が暗くて本も読みにくく、私は夜は喫茶店に入って本を読んでいた。 

 七二年一二月の上旬くらいになるだろうか、私はヒッチハイクで大阪の寄せ場、釜ヶ崎へ向かった。釜ヶ崎は日本最大の寄せ場である。ドヤは一畳であるが鍵のかかる個室だったから大いに助かった。本も十分に読める明るさがあった。釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)が七二年夏に結成されていた。規約などなく入るのも出るのも自由な個人・団体の自由な共闘会議であった。一二月中旬に釜共闘の中興となる大きな屋内決起集会が開かれたので、私も参加した。私は思想的には自分の方が釜共闘の思想性より根源的だと考えていたが、彼らの風貌や雰囲気また演説の言葉遣いなどに、私は資本との日々の対決それはヤクザとの命がけの対決にもなりうるの中で生きてきた本物の革命闘争者を感じていた。闘争経験が乏しい私に不足しているものを彼らは多く体得していると感じ取っていた。だから私は気後れする部分もあったが、積極的に彼らと付き合うことによって自分を鍛え上げていこうと考えたのであった。 

 この屋内集会で多くの釜共闘のメンバーと知り合いになり、翌日の仕事から一緒に働きに行くようになった。そして彼らと一緒に現場闘争も何度か行なったし、私一人の時にも行なった。越冬闘争が終わった七三年一月、釜共闘のほとんどのメンバーが山谷でヤクザと闘う山谷現闘委と山谷労働者を応援・共闘するために山谷へ出掛けたことがあった。私も行った。みんなヤクザとの対決も想定して雑誌を腹に巻き、武器として鉄筋工が仕事で使う「シノ」を携帯した。戦いはなかったが大いに緊張した。山谷では、その後語り継がれていくことになる山谷現闘委と釜共闘の合同集会とデモが行われた。私はその後四月の初めまで釜ヶ崎で過ごした。そして四月上旬に一人で北海道(アイヌモシリ)へ向けて出発したのであった。 

 私は太田竜の影響で「アイヌモシリ独立建国の革命路線」という立場に立っていた。釜ヶ崎などでの生活と活動も、アイヌモシリに移り住んで闘っていくための助走期間だと位置づけていた。私は釜ヶ崎での生活と闘いを通して自分が随分逞しくなったと感じていた。頭髪も坊主刈りに改めていた。寄せ場での生活と闘いを通じて吸収すべきものはかなり自分のものに出来たと思ったので、お金を貯めて四月上旬にアイヌモシリへ出発したわけである。ただし、この時の旅は、アイヌ民族が置かれている状況、アイヌと道民の意識等を調査して、自分の革命思想と鍛え上げるためであり、闘いを開始していくためではなかった。アイヌ人の家に住み込んで家業の手伝いをしたりした。北海道各地を巡った。電気のない家もあった。 

 旧国鉄日高線に乗った際の出来事である。一人の中年のアイヌ女性が乗り込んできた。数秒後、小学五年生位の男児が「この列車には犬(アイヌの別称)が入り込んでいるぞ!」とみんなに聞こえる声で言ったのだった。彼の友達が「本当だ」と応え、大人たちもニヤッと笑ったのだった。私は怒りで体が震えた。
お金が無くなったら札幌の小さな寄せ場で日雇い仕事をしたり、飯場に入って稼いで、また調査を続けた。途中で友達の顔が見たくなって、美濃加茂や岐阜へ帰り、釜ヶ崎の夏祭りにも参加したが、再びアイヌモシリへ行き、その年の一〇月上旬位までいた。

 私は北海道のことを当時はアイヌモシリ(アイヌ民族の国で日本が不当に占領支配していると考えていた)と呼称していた。太田竜の思想の影響で私は、アイヌ民族を自然と共生する原始共産制の今日的な実体に生きている人々だととらえていた。そして世界革命の一環である帝国主義国家日本を滅ぼし(廃絶し)共産主義社会を建設していく革命は、今なお共産主義の実体に生きているアイヌ(人間の意味でもある)の解放闘争を核に据えることによってこそ、正しく推進されていくのだと考えていた。アイヌシモリ独立闘争である。私は自らを「アイヌモシリ人民志願者」と位置づけていた。
 


 調査を終えた私は七三年一〇月に岐阜に戻った。次のプロセスであるアイヌシモリに正式に住所を移し生活基盤を整えて闘いを開始していくための準備をするためである。私は闘いのためには車の免許が不可欠だと考えたので、岐阜の友人宅に転がり込んで一ヶ月程コンクリートブロック製造工場で働いてお金を貯めた。そして一一月に多治見の実家に戻り、そこから自動車学校に通った。細部は省くが免許を取得し中古車(三万円だった)も入手した私は、日通多治見支店で運転手として数ヶ月働くことにした。私は家族を「もう左翼運動から足を洗いました。真面目に働くことにします」と欺くことにしたのだった。本当のことは話せないからそうするしかなかった。日通では五月末まで働き、美濃加茂の別の朝鮮人土木業者の所で、住み込みで一ヶ月間土方仕事をしてお金を稼いで、私は六月末に車に布団や自炊道具などを詰め込んでフェリーで苫小牧へ向かったのであった。 

 苫小牧ではその日は車で寝て翌日には安いアパートを探してすぐ入居し、その二日後位には八百屋兼魚屋に配達係り運転手として就職した。履歴書には大学卒は書くとかえって不審に思われるので伏せて記入した。こうして私はアイヌシモリで普通の市民を装って非公然都市ゲリラ生活を始めていった。ここで半年間働き、その間にささやかなペンキゲリラ闘争(プロパガンダ闘争)を行った。その後の半年はプロパンガス運送会社で運転助手として働いた。

 苫小牧時代に私は自分の思想を大きく変えた。私はD氏が交流を始めたJ氏の雑誌論文他を読み、またD氏を仲介してJ氏と文通する中で、J氏から批判を提起されて、自分の誤りと太田竜の革命路線の誤りを認識して、思想的立場を大きく修正し変えていくことになったのである。日帝本国人の私たちが勝手に「アイヌモシリ独立建国革命戦線」を名乗るのは完全に誤っている。「アイヌモシリ人民志願者」と自己規定することで、自らを被植民地人民たるアイヌの側に位置づけてしまい、その高見から日本と日本人を糾弾していくことも完全に誤っている。私はこのように自己批判して認識を改めた。そして世界革命の一環としての日本・アジア各国その他の国々を戦場とする革命を「反日革命」と捉え、私たち日帝本国人出身者はその中の重要な部分たる「日本人反日戦線」を担っていくのだと考えるようになったのである。自分自身を「日本人反日闘争者」と規定した。
 


 一九七五年五月一九日、首都圏で連続企業爆破闘争を実行してきた「東アジア反日武装戦線」三部隊が一斉逮捕された。自分よりも先行して爆弾闘争を展開してきた彼らを、私は凄い連中だと思い支持してきたから、一斉逮捕は非常にショックだった。私も早く北海道の中心である札幌市へ住居を移して、反日亡国の爆弾闘争の準備をしていかなくてはならないと思った。しかし一方で私は彼らの思想性に対してはかなりの批判も持っていた。それはJ氏との文通で語り合ったことではあったが、私は札幌へ移る前に再度J氏やD氏と三部隊の思想の問題について直接話し合っておきたいと望み、運送会社を辞めて東京で会うことにした。六月半ば過ぎ頃であった。

 私はD氏にも自分の戦いの具体的な計画などは伏せていたし、J氏に対しては非公然ゲリラを志向していることも伝えてはいなかったが、J氏は察知しているようであった。むろん東京で話し合ったことは純思想的なことであった。東アジア反日武装戦線三部隊の闘いの意義は大いに評価するが、日本と東アジア諸国の人民との歴史的・現在的な敵対関係があるのだから、日帝本国人が「東アジア反日武装戦線」を名乗ってしまうことは、その資格を欠いており間違っている。日帝本国人が「アイヌモシリ独立建国革命戦線」を名乗ってしまうことと同じ誤りである。東アジア人民から見れば、日本人に「東アジア反日戦線」を僭称されたくないはずだ。こういう認識で一致した。
 


 そしてまた三部隊の基本的な思想は、「反日帝闘争」「日帝打倒」という従来の新左翼が用いてきた表現と同じ表現を使っていて、日本帝国主義国をその建国にさかのぼって価値否定して解体し滅ぼしていく(廃絶していく)という、「反日亡国思想」が打ち出されていないという点でも共通の認識を得た。日本人の反日闘争は反日亡国闘争である。私はJ氏やD氏と直接話し合ったことで、自分の革命思想(反日亡国思想)に対して一層自信を持つことができるようになった。

 私は苫小牧に戻り、札幌でアパートを探して一九七五年六月末に転居したのであった。最初はススキノのナイトクラブのボーイの仕事に就いた。昼間の自由時間を確保できると考えたからだ。このアパートの時に工具類等を買い集めたり、混合火薬の勉強をしたり、時限装置に用いる旅行用時計を入手して時限装置を作ってみることなどをした。もちろん攻撃対象の調査も行った。混合火薬の材料のひとつである木炭も買った。しかしこのアパートは一間でありかつ隣室との仕切りがベニヤ板一枚であって室内の音が聞こえてしまうため、一一月初めに引っ越すことにした。仕事も一〇月中旬にススキノの駐車場の管理人の仕事に替えた。隔日出勤(勤務時間は朝九時から深夜一時まで)であり自由時間をより多く確保できるためであった。
 


 私はふたつ目のアパートに移ってから爆弾闘争の準備を本格化させていった。混合火薬の主剤は塩素酸ナトリウムであり除草剤として販売されているものであり、あとは木炭と硫黄である。私は次に硫黄粉末を入手した。除草剤は雪がある冬期間は入手できないから、翌年の春四月か五月頃になんとかして入手しようと考えていた。爆弾の容器としての消火器は北大が冬休みに入った一二月に盗んできた。木炭の微粉砕化作業にも取り掛かったが遅々として進まなかった。そういうまだ除草剤も未入手の準備途上にあった一九七六年三月二日に、本件の北海道庁爆破事件は勃発したのだった。「東アジア反日武装戦線」名の声明文がコインロッカーから発見された。こういう事件があったために私は春以降になっても除草剤を手に入れることが出来なかった。 

 横にそれるが、このような次第で私は道庁爆破をやっていない。無実である。私であれば「東アジア反日武装戦線」という名称は使わない。別の名称を使ってこそ三部隊の闘いは発展的に継承していくことができる。事件後一週間程して、当時関西の飯場で働いていたD氏が私の職場の駐車場へ電話をかけてきたことがあった。私はその時、いまだ除草剤は手に入れてないこと、道庁爆破は私ではないが支持すること、これによって北海道では販売店でのチェック体制が厳しくなるので除草剤の入手は困難だろう。本州の方で入手できたら有難いのだが・・・ということを話した。八三年五月に逮捕されたD氏は二審(七回公判八四年一一月、二七回後半八六年六月)の時、証人になってくれてこうしたことを証言してくれた。彼は七〇年代末には完全に転向していたのであるが、裁判所はかつての仲間ということで証言は信用性なしとして排斥してしまった。 




第三節 でっち上げ逮捕後の私の反日亡国闘争

 私の存在は北海道警察にノーマークだった。しかし七月初旬にD氏が岐阜県内で未開封の五キロ入り除草剤二袋と木炭粉末と硫黄粉末等を山の中の洞窟に隠そうと夜山道を歩いていたところ、偶然通りかかったパトカーに呼び止められ職務質問され交番へ連行されたところで、それらを放置して逃走する事件が起こった。D氏は全国指名手配された。彼の周辺捜査によって私の存在もつかまれて、岐阜県警から道警に通報されることとなり、私はD氏の「立ち回り先」として、道警によって七月二〇日頃から内偵捜査をされるようになったのである。そして結局私は八月一〇日に爆発物取締罰則第三条(爆発物の製造に供すべき器具の所持)違反容疑で、苫小牧港から逃走直前にでっち上げ逮捕され、九月一日に道庁事件ででっち上げ再逮捕されて九月二三日に起訴されたのである。ここでは思想的なことを述べていく。 

 思想は革命闘争の土台に位置するものである。これまでの記述でもそのことが解るだろう。従って直接行動ではない思想闘争だからといって、犯罪性は小さいということにはならない。私の反日亡国闘争は法廷または獄中から発した思想闘争ということになるが、転向後の私は自分のそうした思想闘争を完全に誤ったものだと深く反省している。当時の意識に基づいて書いていく。

 私は反日亡国の武装闘争を展開する前に捕らえられてしまった以上は、法廷と獄中を戦場にして言論で反日亡国闘争をアピールしていくのが自分の任務だと考えた。でっち上げ粉砕の裁判闘争にとって不利になることなど気にしてはならないと思った。そもそも反日革命を目指したときから命は捨ててかかっていたのではなかったか。私は道庁爆破の意義を強調する一方で、その不十分さや誤りについても人々へアピールしていった。後日D氏の闘いだと判明することになった七七年初頭から暮れにかけて展開された一連の反日亡国の爆弾闘争についても、その意義をより鮮明にするべくアピールしていった。個々の闘いへの支持とは別に、日本とアジア等を貫いて闘われていく反日革命の意義、その中における日本人反日戦線の意義、日本人の反日亡国闘争の意義について、何度も社会に向かってアピールしていった。私のこうした思想闘争に影響されて、反日(亡国)武装闘争を闘っていく者が出現しなかったことは本当に幸いだったと思っている。
 


 私は学生時代から、「反スターリン主義」を主張していたが、ソ連の現在の体制がいかなるものであるかについてはほとんど知識を有していなかった。中国革命の実態、「文化大革命」の実態についてもほとんど知らなかった。北朝鮮についてもである。左翼世界にはその手の書籍はなかったし、当時は保守の側にも少なかったはずである。そして左翼は保守側の本は読まない。反スターリン主義とはレーニンの「プロレタリアートの革命的独裁」を復権させることであり、一国社会主義(共産主義)を否定して世界ソビエト社会主義共和国の樹立を目指す世界革命路線に立脚することであった。「スターリン主義国家ソ連」と批判して言う場合も、本物の社会主義国ではなく官僚によって歪められている体制だとするものの、資本主義国より遙かにましだと受け止められていたのであった。 

 私は獄中に捕えられてから色んな本を読み、ソ連、中国、北朝鮮の実態を知るようになった。「共産党による人民への独裁支配」が実態であることを知っていった。一九七八年から八〇年である。この頃に私は共産主義者からアナキストになっていた。一九一七年のロシア革命や一九四九年の中国革命を、共産党による人民への独裁支配を作り出した反革命だと規定して否定するようになっていった。レーニンや毛沢東こそがそういう独裁支配体制をつくりだした張本人だと捉えて反革命者、独裁者と規定し否定した。私は共産主義の「プロレタリアートの独裁」「人民の独裁」という思想を否定した。それこそが共産党によるプロレタリアートや人民への独裁支配を作り出すのだと否定した。しかし私は敵(ブルジョアジーとか)への独裁は当然のことだと考えていたから、マルクス、レーニン、毛沢東の共産主義を否定してアナーキズム(無政府共産主義)の立場から「社会独裁」を主張していったのだった。アナーキズムの立場から世界革命や反日革命また反日亡国闘争を再構築して社会に向けてアピールしていった。  

 一九八〇年から八二年頃にかけて私はまた思想を変化させていった。自分では深化させていったと思っていた。私は革命がプロレタリアート人民に対する独裁支配に転化しないようにするにはどうしたらよいかを考え続けていったが、「民主主義」に行き着いた。ブルジョアジーを自分たちの「民主主義」から排除して彼らに対する独裁を肯定するからこそ、革命党や革命勢力によるプロレタリアート人民に対する独裁にもなっていってしまう。つまり「プロレタリア民主主義」や「人民民主主義」(これらは敵への独裁、すなわち「民主主義」からの排除と、プロレタリアや人民内部の完全な民主主義だと理論化されていた)は全くの誤りである。否定し去って、「普通の民主主義」(左翼用語でいう「ブルジョア民主主義」)の立場に立脚するようにしなくてはならない。私はこのように思想を変えていった。 

 民主主義は革命という考え方自体を否定するものであるから、もし私が日本革命論者であったならば、ここから転向が始まっていっただろう。だが私はほとんど最初の頃に世界革命論者になっていた。世界をひとつの人間社会ととらえる立場である。だから民主主義も「世界民主主義」としてしか考えられなかった。第三世界各国においては、国内における民主主義などないから、人民には武装革命の権利がある。帝国主義本国においては、国内における民主主義はあるが、それは第三世界に対しては帝国主義となって現れているものだ。世界民主主義制度は帝国主義国と第三世界の独裁的政府の反対によって現在は存在していない。第三世界の人民は自らの政治的意思を平和的に世界政治に反映させることは出来ない。従って、帝国主義国の支配を打破していくための第三世界の人民と帝国主義本国の革命勢力による武力革命すなわち反日革命は正当化されるのである。私はこのように考えたのであった。革命によって国家権力を握ったときに民主主義(世界民主主義)が実現されていく。 

 一九八二年頃からの私は、「真の共産主義」の実現ということで、政治的には世界民主主義、経済的には世界共産主義という立場になっていった。私はこの立場から改めてマルクスやレーニンや毛沢東らの共産主義とロシア革命、中国革命、そして全ての共産主義革命を全面否定した。自由ゼロの奴隷支配の共産主義国家の体制は、先進国(帝国主義国)の体制以上に私の憎悪の対象になった。何十倍も憎悪した。私は一九八五年頃に、アナーキズムも共産主義と同じ民主主義を否定する独裁思想だとして否定し去った。私は「反日・反米」と同時に「反ソ・反中・反北朝鮮・反共産主義国」を主張し、社会にアピールしていった。私が反日革命を自己批判して否定するようになるのは一九九二年のことである。私が「世界民主主義」という諸国家とその民主主義を否定する誤った(狂った)思想を自己批判して否定したのは一九九六年前半であった。 









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