極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺とソ連軍兵士の日本女性強姦(その3)
ー日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害(シベリア抑留)
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(1)日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害(シベリア抑留)
2013年2月 Minade Mamoru Nowar
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/CombineDorei1.html
(続き)
8.日ソ戦争を記述しない歴史書
①日ソ戦争という名称
筆者が2006年10月上旬、電話で問い合わせた結果では、
外務省、厚生労働省、文部科学省、内閣府北方対策本部では
【日ソ戦争】という名称は使われていない。
国立公文書館アジア歴史資料センターのキーワード検索で
【日ソ戦争】で検索しても、わずか2件しか出てこない。
国立国会図書館の資料の検索のキーワード検索で
【日ソ戦争】で検索してもわずか7件の文書が出てくるのみである。
ちなみに、日露戦争で検索すると146の文書が出てくる。
平凡社の『日本史大事典』(全七巻、1994年5月発行)、
角川書店の『角川 日本史辞典 蔵書版』(1976年5月発行)、
岩波書店の『岩波日本史辞典』(1999年10月発行)、
京大日本史辞典編纂会編の『新編日本史辞典』(東京創元社
1990年6月発行)、
東京堂出版の『昭和史の事典』(1995年5月発行)、
東京書籍の『日本史総合事典』(1991年11月発行)など
主要な日本史辞典あるいは日本史事典には【日ソ戦争】という
項目はない。
筆者は、日本が仕掛けた日中戦争と太平洋戦争(=日米戦争)と
ソ連が仕掛けた【日ソ戦争】とは戦争の性質が異なる故、
区別して歴史事実を明確にする必要があると考え、
日中戦争と太平洋戦争(=日米戦争)と区別するため
【日ソ戦争】という名称を使っている。
日本の公的機関と歴史学会は【日ソ戦争】と【日中戦争・
太平洋戦争】と戦争の性質を区別して認識してはいないと思われる。
歴史学者の多くが、日本歴史上かってなかった、
この悲惨な【日ソ戦争=ソ連の対日参戦】の歴史事実を
無視あるいは軽視している。
1945年9月以降、現在に至るまで旧ソ連・現ロシアは
それ以前は日本領土であった南サハリンと千島列島を
完全に支配している。その原因である25日間の
【日ソ戦争=ソ連の対日参戦】について、
現在の歴史書のほとんど全部はふれていない。
あまりにもお粗末である。
日本の歴史学者は、【日ソ戦争=ソ連の対日参戦】、
【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働】、
【満州・北朝鮮における日本人民間人の受難】を
どのように考えているのだろうか?
②日本の歴史書における日ソ戦争についての記述
シベリア奴隷労働被害者(シベリア抑留者)が書いた体験記以外の、
日本の昭和時代を含む歴史書は、半藤一利氏の諸著作を除いて、
【日本人捕虜のシベリアにおける悲惨な奴隷労働】については、
⑫~⑯及び②①~②④の9冊以外は、極めて簡単に数語
あるいは数行書かれているだけである。全く記述されていないものもある。
①遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史』
(岩波新書 1955年11月発行)は第208頁で「8月8日深夜、
ソ連は対日宣戦を布告し、9日未明ソ連軍は満州に進撃を
はじめた」とわずか1行述べているにすぎない。
②藤原彰著『日本現代史大系 軍事史』(東洋経済新報社
1961年2月発行)は第222頁で「ソ連の参戦にさいし、国境陣地は
一日の攻撃で突破され、関東軍の主力は鮮満国境山岳地帯に
待避しようとしたのも、この兵力装備の実情からいって当然で
あったといってよい」とわずか2行の記述がある。
③井上清(マルクス主義歴史学の泰斗とされる歴史学者)著
『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書 初版1966年発行
下巻 第58刷 2005年11月発行)は下巻第210頁に
「8月9日未明、ソ連が参戦し、ソ連の大軍は満州へ
怒濤のように進撃してきた」と35語の記述ある。
④家永三郎著『検定不合格 日本史』(三一書房 1974年
5月発行)は第270頁で「ソ連首相スターリンは、ヤルタでアメリカ・
イギリス両国首脳と秘密協定を結び、千島・南樺太をソ連領とする
ことを条件として参戦を約束し、日本に戦い宣し、進撃を始めた」
と79語述べている。
⑤高柳光寿・竹内理三編
『角川 日本史辞典 蔵書版』
角川書店 1976年(昭和51年)5月発行
この辞典は全1406頁の本格的な日本史辞典である。
編集委員は下記の通りで当時の日本歴史学界の中心であった
方々である。
元日本歴史学会会長 高柳光寿氏
早稲田大学教授 竹内理三氏
千葉大学助教授 宇野俊一氏
明治大学教授 木村 礎氏
東京大学教授 杉山 博氏
国学院大学教授 鈴木敬三氏
北海道大学教授 田中 彰氏
国学院大学教授 樋口清之氏
京都大学助教授 古屋哲夫氏
国立文化財研究所 宮 次男氏
「日清戦争」、「日露戦争」、「日中戦争」、「日独伊三国同盟」、
「日ソ中立条約」、「日ソ共同宣言」という項目はあるが
「日ソ戦争」という項目はない。
「ソ連」は「⇒ソビエト社会主義共和国連邦」とあり、
その中に「45年8月日本にも参戦、日本降伏を決定的とした。」と
24語の記述がある。
「対日平和条約」、「対日理事会」、「対日賠償問題」という項目は
あるが「対日参戦」という項目はない。
「シベリア出兵」という項目はあるが「シベリア抑留」という項目は
ない。
当然のことながら「日本人捕虜」とか「奴隷労働」という項目はない。
【25日間の日ソ戦争】と
【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働】という歴史事実は、
当時の著名な歴史学者の方々の念頭には全くなかったものと
思われる。
⑥秦郁彦(拓殖大学教授)著『昭和史を縦走する』(グラフ社
1984年8月発行)は、第247頁で『ソ連の対日参戦』として
80語の記述がある。
⑦中村文雄編著『高校日本史教科書 検定教科書18冊を
比較・検討する』 本文360頁 (三一書房 1987年11月発行)は、
『シベリア抑留=日本人捕虜の奴隷労働』については一言も
ふれていない。
⑧中村隆英東京大学名誉教授の全724頁の大著『昭和史Ⅰ、Ⅱ』
(東洋経済新報社 1993年4月発行)
第379頁は14行にわたって日ソ戦争について述べている。
⑨西尾幹二著 新しい歴史教科書をつくる会編
『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス 1999年10月発行)は
全774頁の大著であるが、日ソ戦争については第619頁に
「ソ連が参戦し」とわずか6語記述しているだけである。
⑩ 前田哲男編・前田哲男・河辺一郎・こうけつ厚共著
『岩波小辞典 現代の戦争』 (岩波書店2002年5月発行)
日ソ共同宣言、日ソ中立条約という項目はあるが日ソ戦争という
項目はない。シベリア抑留という項目もない。対日平和条約という
項目はあるが対日参戦あるいはソ連の対日参戦という項目はない。
当然、日ソ戦争によるスターリンの惨禍についての記述は
どこにも見当たらない。
⑪毎日新聞社編『最新昭和史事典』本文926頁
(毎日新聞社 1986年4月発行)
日ソ基本条約、日ソ共同声明、日ソ共同宣言、日ソ漁業条約という
項目はあるが、日ソ戦争という項目はない。
シベリア抑留という項目もない。
対日平和条約、対日理事会という項目はあるが
対日参戦という項目はない。第847頁に
「8.8 ソ連対日宣戦布告」と1行記載されているだけである。
⑫編集委員 藤原彰/粟屋憲太郎/吉田裕
『最新資料をもとに徹底検証する 昭和20年 1945年』
(小学館 1995年6月発行)
第40頁~第41頁
『ソ連参戦』(執筆者:纐纈厚山口大学助教授)
日ソ戦争について正確に記述している。「陸軍の強硬派は、
依然として徹底抗戦をさけんでいたが、ソ連参戦と国内民衆の動向は、
ポツダム宣言の受諾にむかわせることになったのである」と
結んでいる。
第118頁~第121頁
『「終戦」後の戦闘-満州での戦闘-樺太・千島での戦闘』
(執筆者:山田朗明治大学助教授)
8月16日以降の日ソ戦争について正確に記述している。
「ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日色丹島、2日に国後島、
3日に水晶島を無血占領した」と述べている。
第202頁~第203頁
『ソ連(シベリア)抑留』(執筆者:伊藤悟成蹊中学・高校教諭)
「居留民は悲惨な状況に直面した。まもってくれるはずの関東軍は
敗走し、無秩序状態のなかで日本をめざしていた。
しかしソ連軍は集団で徹底的な略奪をおこない、
年齢に関係なく婦女暴行を働いた。
この過程で抵抗する者などは容赦なく射殺された。
【男狩り】とよばれる男子の徴集がおこなわれ
兵士同様にシベリアに送られて強制労働に従事したものも
多かった」と正確に記述されている。
「ソ連軍管区で敗戦をむかえた日本人は、戦争という国家犯罪の
犠牲者であるとともに、戦後処理に関するもう一つの日ソ両国による
国家犯罪の犠牲者でもあったのである」と結んでいる。
⑬由井正臣著『日本の歴史⑧ 大日本帝国の時代』
(岩波ジュニア新書)2000年11月発行
第211頁
「8月15日ですべての戦争が終わったわけではなかった。
南樺太では、8月11日にソ連軍が侵入して戦闘がはじまり、
日本軍が武装解除されたのは28日だった。
千島列島では9月1日まで戦いはつづいた。
満州では8月8日の対日宣戦布告と同時にソ連軍が侵入した。
関東軍(満州に駐留していた日本軍)の高級将校や満州国の官吏は
いち早く日本に逃亡し、関東軍も、開拓団農民や一般民間人を
置き去りにして南下した。散発的な抗戦は8月末で終わった。
この間、開拓団員や民間人は、ソ連軍の暴行・略奪にさらされ、
苦難の引揚げの途中、飢えや病気で死亡し、
子供を置き去りにしたり、中国人に托したりすることを余儀なくされた。
在満民間人約150万人のうち、犠牲者は17万6,000人といわれる。
そして今日までなお問題を残す3,000人以上の中国残留日本人孤児が
生みだされた。
また降伏した関東軍兵士や樺太・千島での捕虜57万人は、
シベリア・中央アジアに連行・抑留され、強制労働に使役されて、
約6万2,000人が死亡した。」
⑭藤村道生(上智大学教授)著『日本現代史』
(山川出版社 1981年9月発行)
第271頁
本土決戦のため国民義勇戦闘隊に支給される武器が首相官邸で
展示された。竹槍、弓、さす又など、すべて江戸時代のものであった。
本土決戦では、日本国土が戦場になるのだから戦闘員以外の住民の
処置が最大の問題であるが、軍(=旧日本帝国陸軍)はこれを
研究しなかった。『国土決戦教令』は、「敵(=米国軍)は住民、
婦女、老幼を先頭に立てて前進し、わが戦意の消耗を計ることあるべし、
かかる場合、わが同胞(=日本国民)はおのが生命の長きを願わんよりは
皇国(=日本国)の戦捷を祈念し、敵兵撃滅に躊躇すべからず」とあった。
(志村注:旧日本帝国陸軍は、本土決戦においては、女性・老人・幼児が、
戦闘に巻き込まれて死んでもかまわないとはつきりと言っていたのである。
怖ろしいことである。)
本土決戦は日本国民の生命を守るものではなかった。
軍(=旧日本帝国陸軍)は、全国民を道づれにして、
玉砕(=自殺)しようとしていたのであった。
(志村注:筆者が本土決戦を無理心中作戦というゆえんである。)
第273頁~第274頁
ソ連の首脳部は日本が原爆により【早期】に降伏しては、ソ連は予定した
獲物の一部を入手できなくなるという不安と危機感をもった。
ヤルタで決められた中国との友好条約は8月14日に調印の予定であったが、
160万のソ連軍はそれに先立ち、日ソ中立条約を無視して、主戦力を
南方にひきぬかれ、無防備同様の満州に殺到した。
ソ連は占領地を拡げるために、自国の兵士を含めて無用の死者をだすことを
ためらわなかった。ほとんど無意味の南樺太進攻で日ソ両軍のかなりの人命を
犠牲にした。
満州では日本軍が降伏した後も停戦せず、この結果、女・子供だけでも
13万人が死亡するという悲惨な事態が生じた。
⑮角川書店 『ワイド版 新版 日本史辞典』
(角川書店 1997年9月発行 全1468頁)
下記の記述だけである。【日ソ戦争】という項目はない。
第488頁
シベリアよくりゅうもんだい:
シベリア抑留問題:
ソ連軍による日本軍兵士などの抑留と強制労働をめぐる問題。
第2次世界大戦後、旧満州・樺太・千島などの日本軍兵士や
民間人は、シベリアの捕虜収容所に送られ,復興のための
労働力として使役されたり,親ソ分子となるための政治教育を
うけたりした。
抑留者総数は60万人以上といわれ,劣悪な環境や
苛酷な労働などで7万人近い死亡者が推定される。
「暁に祈る」事件などのリンチ事件も発生した。
1950年(昭和25年)5月までに47万人が日本に送還されたが,
その後も未帰還者の送還をめぐり日ソ間で対立が続いた。
この問題は日本人の対ソ感情悪化の一要因になったが,
真相はソ連のゴルバチョフのペレストロイカ(建て直し)政策以降,
徐々に明らかになりつつある。
⑯山川出版社『日本史広辞典』
(山川出版社 1997年9月発行 本文2275頁)
下記の記述だけである。【日ソ戦争】という項目はない。
第1018頁
シベリアよくりゅう【シベリア抑留】:
第二次大戦の敗戦により満州・北朝鮮・樺太・千島列島の
日本軍人・満蒙開拓団農民・満州国関係職員などがソ連に
抑留されて、各地で強制労働に従事したこと。
ソ連軍による武装解除後、シベリアを中心とする各地の
収容所に送られ、鉄道建設、炭鉱、道路工事、農作業などの
労働をさせられた。
待遇は苛酷なもので、抑留者約57万~70万人のうち
約一割が死亡したと推定される。
抑留者は1946年11月に成立した
「引揚げに関する米ソ暫定協定」に従って、
12月にナホトカから引揚げを開始、
50年4月末までにほぼ帰国を完了した。
現在までに旧ソ連から引き渡された抑留中死亡者
名簿登載者は4万25人。
⑰林茂著『日本の歴史25 太平洋戦争』
(中央公論社 1967年2月発行)
第457頁~第458頁
ソ連の対日参戦の事実と、それによる日本政府と軍部の醜態を記述して
いるが、【日ソ戦争】の内容についての記述はない。ましてや
【シベリア抑留】と【満州・北朝鮮における日本人の惨状】については
一言もふれていない。
⑱蝋山政道著『日本の歴史26 よみがえる日本』
(中央公論社 1967年3月発行)
第18頁
「この広島への原子爆弾の投下が行われたことを、マリク駐日大使の
実地視察によって現実に確かめたソ連は、さっそく8月8日、
ポツダム宣言に調印するとともに、日本政府に向かって対日宣戦の
通告をしてきた。(以下8行略)」と記述されている。
⑲昭和史研究会編『事件・世相・記録 昭和史事典』
(講談社 1984年発行 全926頁)
第405頁
「シベリア引揚げ
ソ連に抑留されていた日本人の送還は、昭和21年(1946年)
12月8日に開始されたが、1年あまりで中止され、
再開されたのは昭和24年(1949年)からであった。
シベリア引揚げ再開第一船の高砂丸が、
1,980人の日本人を乗せて舞鶴港へ入港したのは
6月27日午前9時30分であった。
第一船の引揚者は、インターナショナルを合唱して下船し、
出迎えた肉親や市民に、日本革命を熱狂的にアピールした。
このため、日本共産党の徳田球一書記長が、日本人捕虜のうち、
共産主義思想に同化しないものは送還しないようにと
ソ連に要請したという情報が流され、翌年の国会で徳田を喚問
するという動きが起った。
東京ほか関東・東北地方出身の引揚者641人を乗せた
引揚げ列車は、同年7月2日に品川・東京・上野の各駅に停車、
下車した人のうち240人が日本共産党本部に直行し集団人党した。」
上記の他の、シベリア抑留に関する記述は第366頁、第398頁、
第466頁に引揚げ船入港との記述が数語あるだけである。
日ソ戦争あるいはソ連の対日参戦という記述はどこにもない。
ましてやシベリア奴隷労働被害とか、日本人捕虜とかの
言葉は皆無である。
シベリア抑留の内容についての記述も皆無である。
(続く)
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極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺とソ連軍兵士の日本女性強姦(その3)
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